s56/6数江教一の宗二論 | wabicyaのブログ

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極侘数寄を目指しています。

侘数寄は心強く大胆にあらねば、道具万ず不如意なる程に、世に有る人と交われば、心劣りせられて肩身つまりて、自ずから茶湯にうとむもの也といいて、ただ胸の覚悟第一ならん(長闇堂記)

数江教一氏の話が延々と連載されてます。

 

道具について賛同出来るところと、些か疑問が有る部分があって興味深いので掲載します。

 

 

 

 

 

 

珠光の有名な言葉を引用しながら、侘び道具とその心について、自論を展開してますが。

 

珠光の初心者が備前や信楽の道具を振り回すことを苦々しく思ったと言う有名な部分です。

 

教一氏はそう言う道具と対照的に、華麗な赤絵や金襴手を引き合いにして、“侘びに興味の無い者”にとって“薄汚い壺”とまで表現してます。

 

あるものに美を感じるのに、初心者も熟達者もないです。

 

もちろん、初心者の中には、先立熟達者の意見や好みを無定見に受け入れて、本心ではその価値も理解出来ないのに、虚栄心だけで、それらを買い求め茶会で使うヤカラもいるかも知れません。

 

しかしながら、備前や信楽あるいは黒茶碗もそうですが、そこに「美」と言うよりは、敢えて言い換えるならば、自らの“好み”を見出せる事は経験年数に変わりは無いと強く思います。

 

ましてや、自ら備前や信楽などなど、作った経験が有れば直感的にわかります。

 

文の末尾で朱の傍線は入れてませんが、氏が「わび茶の場合は、その形や色彩は出来るだけ穏やかで地味なものでなくてはなりません」と書いておられるのには強く同意出来ますが。

 

追加)現代の若い陶芸家の中でも、備前や信楽に強く惹かれて、自らわざわざ穴窯まで作って作陶に励んでいる子らもいます

「美」を感じるのに必ずしも経験が必要ではないですね。必要なのは「感性」だと思う。

「備前信楽を振り回して」と言うならば、言わばその事自体が茶人の“奢り、慢心”と思うべきです。」


追加)

まあ、自らを茶人と言い、茶碗の鑑賞でうんちくを語るなら

茶碗の10個、水指の3個ぐらいは陶芸教室の先生の手を借りずに作ってみてからにしたらどうか?

 

(ろくろでなくても、手捻りの方がいいですよ。ろくろは“味”が無いものになってしまいます。シロート作りは特に)

(ろくろで、陶芸教室の指導者の“手”が少しでも加わったものは、もはや、あなたの作品ではなくなります)(土ごろし(最近は”土ならし”とか言い換えるようですが)から、ちゃんと自分で出来て初めて”ろくろ成形”と言えます。)