わびさびついて書かれた谷晃氏の新刊
氏の指摘
「茶の湯は次第に形式に流れ表面的には禅を装いさえすればそれで良いと言う傾向に堕していった為、ことさらに茶の湯における禅の意味を強調せざるを得なくなったのではないかとも考えられるのです」
なかなか読み応えのある本です。
裏を返すと抽象的でわかりにくいところがありますが。。。
神津朝夫氏の著書の様には読み易くないです。。
追加
”侘び”とは何か?実践する茶人の考え一つだと思いますが、例えば、現代で大燈国師宗峰妙超の遺偈を掛け、大名道具の金銀高蒔絵の棗や漢作の大名物で、普段は高級ゴルフ場に出入りし高級外車を乗り回す数寄者が侘び茶風を装ってもそれは、侘び茶とは私は到底思えません。
侘び茶とは、私は「その茶人の生活そのもの」だと思うのです。そういうことがこの本には書かれていないのが残念です。
(注:宗旦が大名の茶事に招かれたところその大名がおよそ大名らしくないみすぼらしい茶事をして、宗旦に大名は大名らしい茶事をせよとたしなめられたという逸話がありますが、私の上の話はそれとはすこし異なると思います。。。)
追加
それにしても巻末の参考文献のページを見ると沢山列挙されてますね。もちろん全部読んでいらっしゃるという意味も多分に含んでいるのだと思いますが。。。
追加)
筆者谷晃氏は現在野村美術館館長と言う。彼の茶の湯はやはり、美術品としての茶道具に軸足が有る様に感じます。茶の湯は、お茶で人をもてなしてなんぼの世界で本当は講釈など不要だと思いますね。
更に追加
この本では、山上宗二記が度々引用されてますが、彼の茶はあくまでも”道具茶”で侘びでは無いと私は強く思っています。
記ではそのほとんどが名物の列挙と秘伝は口で教える(授業料も必要だっただろう)という。
山上宗二は、ガッツリと茶の湯で商売してますね。根性が意地汚いのは彼の顔や性格からも見て取れる様な気がします。。
利休が彼を弟子として好んだと言うのが私には信じがたいですね。