原三渓の蓮華庵での茶会の追憶
和辻氏の正客、次客以下に谷川氏、私(堀口捨己)、詰めが和辻氏御内ぎ。
本手ととや茶碗が出された時。和辻氏が手に取られた時割れたとの事。
古い継ぎ目が剥がれて取れた。
亭主の原さんは、平然と剥がれた破片を取って、未だ形の残っている茶碗を拝見にまわしたとの事。
堀口捨己氏は、その原氏の割れた茶碗を平然と拝見にまわし取り替えなかった原氏の扱いを「実に見事」と褒めている。。
この話を松永耳庵さんに申し上げたら、松永耳庵さんは、「なるほどそれは感心だ。自分は代わりの茶碗を蔵から出しているうちに時間がかかり間が抜けてしまった」と言って流石は三渓先生だけあって違うなぁ」と感心しておられた。」
私見補足)
先日もとある茶会で、寄り付きに出ていた蕎麦茶碗を私も手に取って拝見したら、横に説明や見張り役として控えていた若い道具屋の小僧が、割れるいけないので言って取り上げてしまう事がありました。。。
金繕いなどの古いものは、割れると言うよりも、漆が古くなり剥がれる事は往々にして有る事だと思います。
私の言いたいのは、原氏の扱いが素晴らしいのでは無く、割れる様なものであれば果たして、使うべきであったか?と言う事です。
そして、客に出して割れたのならば、先ずもって、亭主の不備を客に詫びるべきでは無かったか。と言う事です。
この頃の財界系数寄者は、カネにものを言わせて茶道具だけで無く古美術骨董を買い集めそれを自慢げに披露する茶会を開いていたわけですが、いつ壊れるかわからない様な怪しいものを、客に出すと言う傲慢な根性が、侘び茶の心からは、程遠いところにある様に思いますね。
当時の財界数寄者の振る舞いに、心ある茶人は、本音ではあまり良い事を思っていない様でもあります。
追加)
当時の財界数寄者らの集めた美術品を、相続税などの税金逃れに、財団法人などの、多くの場合は美術館など法人の所有にし、かつ、カラスの向こうに展示して殆ど、使われないと言うのも、むしろ“実用に耐えない道具”であるとも言えるのではないでしょうか。