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「江戸時代には武家茶系の流儀に家元制度は存在しなかったのであり、その家元という呼称は、近代になって旧大名家が茶を家業とするようになってから、ほかの流儀にならって称しはじめたものなのである。

 

なお、宗編流も完全相伝を続けていた。山田家に「家元」の権威を求める要望により、山田家が家元になったのは大正十年(1921)になってからである。しかし、その家元に属する必要はないと考えた人も多かったため、宗編流には今もいくつかの茶系を引く流派が並存することとなった。同じ事情が遠州流、石州流にもある。」