利休は政治的にも秀吉の片腕だった | wabicyaのブログ

wabicyaのブログ

極侘数寄を目指しています。

侘数寄は心強く大胆にあらねば、道具万ず不如意なる程に、世に有る人と交われば、心劣りせられて肩身つまりて、自ずから茶湯にうとむもの也といいて、ただ胸の覚悟第一ならん(長闇堂記)

利休の島津家老へ出した書状

「千利休」桑田忠親著 2011/6/1初版 p53 

 

大阪城に於ける利休の権勢 側近の細川幽斎と千利休に命じ、島津家老の伊集院忠棟に宛てて同様(大友氏との和睦を即す)の趣旨の連署状を、少し穏やかな文章で伝達し、暗に秀吉への降伏を勧告している。

 

万が一、これをご承諾なされぬとならば、必ず兵を用いるご所存で有る。ご分別なされるのは、この節でござろう」 と、脅かしている。 

 

伊集院忠棟は歌道に於いては細川幽斎の門人であったし、茶湯では利休の弟子であったと言う。 

 

その後、島津義久は利休に生糸十斤を贈り、秀吉側側近の利休にとりなしを求めてきた。