産経新聞に「『個性より学力』…AO入試の見直し進む 成績低下で」という記事が載っていた。AO入試とは生徒の個性を評価するという建前の非学力型の大学入試方法。ここ十数年で一気に増加したが、学力試験を経ていないために大学の成績が一般入試入学者よりも低い傾向にあることなどから、ここにきて見直しが始まったようだ。九州大・筑波大などでは一部ですでに廃止している。

非学力入試には、AO入試以外にも推薦入試や内部進学というのもある。早慶もすでに約4割が一般入試以外の方法で大学に入学している。下位大学ともなれば大半が一般入試以外の方法で入学というところもある。上位大学の場合は少子化ゆえに偏差値を維持するために一般枠を減らし倍率を維持したいという思惑があり、下位大学の場合は定員割れをしないように学力のない学生も入学させてしまいたいという思惑がある。大学入試で楽をしたい生徒と大学側の思惑が一致し、非学力型入試は拡大してきたのである。学力偏重の反省もあるだろう。

ただ、AO入試の問題点は学力試験を課していないことにあり、個性を尊重していること自体は問題ではない。個性より学力という比較が可能かは疑問である。「個性も学力も」というのが理想だろう。別にそれは不可能ではなく、別に現在のAO入試に数科目の学力試験を課せば済む話ではないだろうか。AO入試の廃止には、面接など時間がかかるので大学側の事務処理などが面倒などの理由もありそうだ。

なお、AO入試を自己推薦などのほかの看板にかけかえるだけの可能性は高い。実際、ここ数年で、立命館・上智・早大などは相次いで系属校・教育提携校などを新規に設置したりしている。特別推薦・内部進学などの形で学生を確保しようとしているのである。AO入試を廃止する分、同じく非学力入試の内部進学者を増やすのでは全く意味がない。政府の中教審がいうように、高卒者全員に一律の学力試験を設けるべきだろう。フランスのように大学受験資格(バカロレア資格)を設置するのも一つの案だ。

AO入試の理念は良いと思う。ただ、日本の高校までの教育が横並びを重んじるために、金太郎飴のような生徒しか育成できていない中では、AO入試は日本の入試としては不適だったのだろう。個性は重んじるもなにも、人はそれぞれ違うので個性はあるのが前提である。個性を軽視し、機械的に生徒を管理しようとする教育法はさすがに時代錯誤だ。個性を評価したいのであれば、大学入試でいきなり個性を唱えるのではなく、横並びを重んじる全体主義的な初等教育から抜本的に見直すべきだろう。

それに日本の教育問題に関しては学費の高さも問題だ。アメリカ以外の欧米諸国は国立大が主であり、学費が無料というとこも珍しくはない。結局日本では、ある程度の経済的余裕がないと入れないゆえに、学歴が社会階層の固定化の役割を果たしてしまっている。大学の学費に加え、大学に行くには予備校へ通ったりしなければならずお金がかかる。結局、低所得者層は教育から排除されてしまっているのである。

少子化で学力低下も叫ばれるが、少子化したのであればその分だけ一人一人にかけられる教育の時間は増えるから、逆に学力は向上しないとおかしい。他人との競争にばかり目がいき、大学序列でなるたけ上を目指すという意識があまりに強いために、勉強する意味を失っているというのが現状だろう。社会はグローバル化で外国語の重要性が増し、政治経済も複雑化している。社会で主体的に生きていくためには知識・思考力は重要であり、それゆえ教育は重要なのだ。子供が減ったことで学力低下するというのは結局のところ、勉強ではなく競争に目が行っているからこそ起こる矛盾なのだろう。

おそらくAO入試・推薦入試・内部進学に強い批判があるのは、学力が低いのにもかかわらず、○○大学卒業という肩書きを得られるからだろう。上位国立大に落ちて明青立法中に進学した人と、早慶に非学力入試で入学した場合は前者の方が学力は高いだろう。しかし、偏差値に基づく大学の序列の中では後者の方が高い評価を得るという不可思議な状況が生まれているのだ。ただ、最近は大学名は学力を担保しないと、大学名不問の企業や基礎的な学力試験で足切りする企業が増えたので、これについての不満はやや解消されつつあるのかもしれない。

日本の教育界は迷走状態にある。少子化する中でどのような教育が良いのか、根本から今一度、考えてみる必要がありそうだ。