たまには真面目に歴史の話・・・・・ | やはぎ飛鳥まつりin北野廃寺

たまには真面目に歴史の話・・・・・

愛知県岡崎市北野町 北野廃寺

北野廃寺は、元のお寺の名前がわからなかったため、地元「北野町」の名前を頭につけて「北野廃寺」と呼ばれています。創建は飛鳥時代前期7世紀ごろと言われています。
岡崎市やはぎ地方には、持統天皇や大友皇子(持統天皇の弟)の伝説が多く残されていますが、その頃にはすでに建立していたと考えれられます。

北野廃寺の伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれるものです。
「伽藍配置(がらんはいち)」とは、なんのことかというと、お寺の敷地内に建てられているいくつかの建物の配置位置のことを言います。
普段、皆さんは何気なくお寺に行っていると思いますが、法隆寺にしろ、東大寺にしろ、決められた伽藍配置をもとに境内に建物が建っているのです。
その伽藍配置には、その時代において流行最先端のデザインが取り入れられていると言われています。お寺の建物を作る技術やデザインにしてもそうです。その時代を代表する建造物を実現させるにあたり、その時代、その時代においての、流行最先端のセンスと技術を使うというのは今も昔も変わらない考え方なのです。
ですので、そのお寺の伽藍配置や、建てられた技術、使われた尺を見ることで、いつの時代に作られた建物なのかを推測することができます。
いくつかの「伽藍配置」がある中でも、「四天王寺式」というのは、最も古い伽藍配置であることがわかっています。
今現在、私たちが見ることができる法隆寺。
こちらは、日本で一番最初に世界遺産に登録された世界最古の木造建築物と言われていますが、「四天王寺式伽藍配置」ではありません。実は、今皆さんが見ている法隆寺は新しく建てられた法隆寺です。現在の法隆寺が建てられる前に、元になる法隆寺があったのですが、これは焼けてなくなっています。ネットで調べてみても、法隆寺の再建非建論争という、非常にややこしい論文や争論がずらっと出てくるのですが、この再建非再建論争は、とっくに決着がついております。
その、決着をつけたのは、岡崎出身の石田茂作先生です。仏教考古学においてはスーパースター的な存在の方です。
焼ける前の法隆寺は「若草伽藍」と言います。若草という地名の場所にあるのでその名がついています。その「若草伽藍」は「四天王寺式伽藍配置」でした。
世界最古の木造建築物と言われた現在の法隆寺よりも、さらに古い元の法隆寺と同じ伽藍配置で建てられたのが「北野廃寺」。
なぜ、そのような流行最先端の技術とセンスが、このような三河の地に忽然と姿を現したのか。
そこに大きなロマンとミステリーが隠されているわけです。

北野廃寺は物部氏の氏寺と言われています。
それは、物部真福(もののべのまさち)が建てたという伝説が残されているからです。
しかも、北野廃寺は岡崎市真福寺町にある真福寺の「前寺」であるということが、真福寺の古い記録に残されています。
「前寺」というのは何かと言いますと、ここでは「礼拝所」のことを言います。
古代の人たちは、北野町にあるこの場所から、真福寺町にある真福寺の御本尊に向かって、御経を唱えていたわけです。ちなみに真福寺の御本尊は、古代信仰の名残を強く留める「水体薬師」です。
真福寺の建立は、物部守屋(もののべのもりや)の息子である、物部真福(もののべのまさち)です。
当時は大陸から仏教が伝来した時代。
その頃はまだ偶像崇拝ではなく、寺院の敷地内に建てられた「塔」に向かって、人々が手を合わせるのが一般的だったそうです。というのも、「塔」という建造物には「仏舎利」が納められるものだからです。ですので、人々は「塔」に納められている「仏舎利」に向かって手を合わせていた、そのような意味合いになるそうです。
時代の変化によって、人々の崇拝対象は「塔」から「仏像」へと変わっていきました。
その「塔」に納められた「仏舎利」も、初めは「塔」の「定礎」に埋められるものだったそうです。現在では人々の頭よりも高い位置に、ということで、より高い場所に納められるようになりました。

ということはです。
北野廃寺は「四天王寺式伽藍配置」であり、定礎がしっかり残されています。
その、定礎の下には、その時代において最も大切な崇拝対象だったものが、現在でも埋められていると考えることができるのです。

その心柱の太さから、法隆寺にも匹敵する五重の塔が建っていたと言われる北野廃寺。
その太い心柱をどこから持ってきたのか、どのように持ってきたのか、
そして、誰がどのように建てたのか、そして、誰がこの地に四天王寺式伽藍配置を指揮したのか。
何も明らかになっていません。
矢作川の向こう岸では、せっせと古墳を作っていた時代のことです。

この文明と技術は、一体どこからきたのか。
どうして、ここ矢作の地に、当時の都に引けを取らない文明と建造物が忽然と姿を現したのか。

そこに大きなロマンが隠されているわけです。

2019やはぎ飛鳥まつりが開催されました。
当時の賑やかさに、少しでも近づけることができたのでしょうか。
この地に心柱を建てた人々の想いはどのようなものだったのでしょうか。
このような姿で、この場所に立てることは、この上ない幸せです。

お祭りスタッフとして参加しながら、
古代に想いを馳せました。

ps、素晴らしいお写真をありがとうございました。

岡崎歴史探求班 三田村
カメラマン:ちび猫