この記事はこの記事の続きです。

 

内容的にはこのサイトをある程度読んでいないと意味不明です。

 

他の記事を読まずに今これを読んでいる方は、この記事は一旦スルーしてサイトマップ的な記事の方にアクセスしてください。

 

このサイトの記述を読んでいても意味不明な内容かもしれないけれど。

 

さて、続けていく。

 

鬼頭先生は旧単行本の最終巻でこんなことを言っている。

 

 「かけがえのない命」。そんなモノに救いを求めていても先には進みません。

 あなたがいなくても、たいして困りません。

 自分がいなくても、まったく困らないでしょう。

 だからこそ、無くてもよい存在だからこそ、がんばるのだと思うのです。 

 

…いてもいなくても良いからこそ頑張るとは何ぞや。

 

普通に考えたら無くても良い存在ならば頑張る必要はない。

 

最後の一文について、おそらく…これはヘーゲルが元ネタなんだよな。

 

詳しい話をしても良いのだけれど、面倒だからしないとして、恐らくは鬼頭先生はヘーゲルに関する何かを読んだことがあるか聞いたことがあるのだと思う。

 

ヘーゲルっていうおっさんがドイツに居て、まぁ良く分かんないことをいっぱい書いた。

 

別に僕は何を言ったかは多少なら知っているのだけれど、説明は面倒だからしない。

 

こういう風にAが非Aだからこそ是であるというか、テーゼがアンチテーゼによってジンテーゼになるという議論はヘーゲルっておっさんがやった。

 

ドイツのおっさんがどんな妄想をしたかだなんてすこぶるどうでも良いのだけれど、鬼頭先生のそれも、無意味だからこそ頑張るというヘーゲルのような論理的に成り立たない逆説を用いている。

 

多分、そういうヘーゲル的なものが鬼頭先生の脳裏にあったからこそ、あのような文章が吐き出されることになったのだと思う。

 

それとも、鬼頭先生は確実に読んだであろうユングのテキストにもヘーゲル的な要素が混じっているのだろうか。

 

分からない。

 

まぁ、なるたるの物語自体が、光と闇が両方そなわり最強に見えるって話(Aが非Aによって、真Aに昇華するという話)なのだから、どっかでそういうのを読んだか聞いたかしたのだと思う。

 

光と闇で二つで一つの竜という話でしかないのだから、昇華は別にしていないのかもしれないけれど。

 

ただ、なるたるの本編でジンテーゼというヘーゲルの術語の使用が認められるから、詳しくヘーゲルを知っているかは知らないけれど、"そういうような"情報とは出会ったことがあるのだと思う。

 

(『なるたる』2巻p.118)

 

出会ったことがなければこのような記述をすることは出来ない。

 

人間は、無から有は作れない。

 

物語とて、知っている情報の組み合わせ以外では存在しえない。

 

こういう事は人間で考えるから分かりづらい。

 

ハツカネズミで考える。

 

ハツカネズミは目で見て、耳で聞いて、皮膚で、その髭で、触れて知った事柄以外を知識として持ち得るか。

 

持ち得ない。

 

では人間ではどうか。

 

人間とて同じだ。

 

その事情は人間とて同じなのだから、高尚な作家様や、著名な映画監督、そして漫画家とて変わらない。

 

全ての創作物は結局、作者が見聞きした情報の組み合わせになる。

 

だからきっと、鬼頭先生もそういうものを、ヘーゲル的な止揚の発想をどっかで摂取したのだろうなと思う。

 

冨樫先生も、幽白の作者コメントでバレない所からパクればいい的なこと言ってたしな。

 

ただ…雪菜の氷泪石は結局、ドラクエ4のロザリーからだろうから、そんなあからさまなところを元ネタにするのはどうなんすかね?

 

ちなみに、ヘーゲルさんとて事情は同じで、0からあんな小難しくて意味不明な話を作り上げたというわけではない。

 

元々は仏教の知識になる。

 

実際に、『金剛般若経』とか、般若経典に分類されるお経を読めば分かるのだけれど、ヘーゲルはそういうのを丸パクリした。

 

そういった有名どころの大乗のお経の日本語訳については、サンスクリット語の原典訳が岩波文庫から出ていて比較的入手が容易だから、疑わしい人は読んで確かめてください。俺もやったんだからさ(同調圧力先輩)

 

『金剛般若経』曰く、如来って偉い人は如来ではないからこそ、如来であるとかなんとか。

 

なぁに言ってるか分からないけれど、ヘーゲルと言ってること似てるな?(仏教:Aは非Aであるからこそ、Aである。ヘーゲル:Aは非Aによって否定されることによって、真Aへと止揚する。)

 

若干違うけど誤差だよ誤差!大差ねぇよ!

 

当時のドイツではインドとか中国とかのエスニックな古書の事柄をパクるのが流行っていたらしい。

 

サルトルっておっさんの『存在と無』という著書の"無"とかはまんま仏教の無のことだし、ショーペンハウエルっておっさんの『意志と表象としての世界』の意志の部分、これは死後も存続するらしいのだけれど、魂でもないのに死後も存在する概念が、仏教哲学の中にも存在する。

 

阿頼耶識(あらやしき)という。

 

元ネタはただのお経になる。

 

・追記

後日、小乗の方の仏教(スリランカなどで主流の仏教)に、死後存続する意志の概念があるということを知る。(ワールポラ・ラーフラ『ブッダが説いたこと』今枝由郎訳 岩波文庫 2016年 pp.87-88)

 

ショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』の"意志"はこれが元ネタだと思う。

 

仏教のテキスト、聖典ごとに書いてあることがまるで違うし、注釈や解説の方も書いている人によって内容がまるで違うんだよなぁ。

 

おそらく、ショーペンハウエルが得た知識は、小乗の仏教の何らかの注釈書か解説書であって、多分だけれど実際の経典のドイツ語訳を読んだわけではないと思う。

 

知らんけど。

 

追記以上。

 

ショーペンハウエルについては詳しくは分からないけれど、おそらく、ヘーゲルやサルトルが触れたのは中国の禅に関連するテキストだろうと思う。

 

禅っていうのは足組んで座って、肩をペチペチするあれね。

 

禅宗は一応仏教なのだけれど、中国の道教などの中国の宗教と混ざっているから、本来的に仏教にはない発想が存在する。

 

例えば、座禅については、あれはただの道教の宗教儀式であって、仏教にその発想はない。仏陀はそんなこと言わない!

 

厳密に言えば色々あるのだけれど、心を無にするという発想は道教の思想になる。

 

座禅なんて組んでも、"道"のあり方は分かっても解脱なんて出来ないんだよなぁ…。

 

まぁいい。

 

とりあえず、ヘーゲルやサルトルが読んだのはその辺りのテキストだと思う。

 

もしかしたら禅宗ではなくて直に仏教の聖典なのかもしれないけれど、まぁオリジナルではない。

 

同じくらいか少し前くらいのドイツにはニーチェとかいう人がいるけれど、彼らはキリスト教世界に仏教の価値観を持ち込んだから、そのことで哲学とかいう良く分かんない界隈で有名になったみたい。

 

まぁ永劫回帰とか、元は普通に仏教の輪廻転生の話を丸パクリしただけですし。

 

小難しくて高尚そうな話も、所詮はこのレベルなのだけれど、哲学者という偉そうな肩書があれば問題にされない。

 

十分と言えるような検証は面倒だからしていないけれど。

 

加えて、まだ一切の検証はしていないけれど、ハイデガーっておっさんの本は古代中国の『荘子』って本のパクリらしい。

 

僕は『荘子』は既に読んでいるから、ハイデガーの著書を読めば検証はできるな。

 

得るものはないからしないけれど。

 

具体的にヘーゲルらの時代には、今までなかったインドや中国の古典書籍が大量に流入した時期だったのかもしれない。

 

昔の中国人やインド人が書いた本をドイツ語で読んで、それをパクってしれっとしてたら哲学者だなんて偉そうな肩書きで呼んでもらえるとか楽な仕事だなぁおい。

 

まぁいい。

 

鬼頭先生の作品からはあんまり抹香臭さというか、仏教的な空気は感じられないから、鬼頭先生が摂取したのは西洋的な何かだろうと個人的には考えている。

 

ただ詳しくは知らない。

 

僕が知るわけないじゃん。

 

・追記

これ…漫画の『センゴク』読んでて知ったのだけれど、禅宗の道元っておっさんの言葉で、"吾有事"って言葉があって、意味するところは「存在と時間の一体」。

 

ところで、ドイツの哲学者のハイデガーっておっさんが書いた本は『存在と時間』。

 

…。

 

大体、ハイデガーをやるんだったら『荘子』と道元を読めばより良く(笑)分かるようになるらしい。

 

いや、そもそも禅宗という宗教団体が仏教徒なのに道教の『荘子』と『老子』をパクって成立してるんだから、多分、ハイデガーが『荘子』をパクったって話は要するに、ハイデガーの元ネタの『正法眼蔵』のさらに元ネタが『荘子』ってだけで、その話をしてた人は禅宗が『荘子』のパクリってことを知らなかったんだと思う。

 

恐らく、ハイデガーが読んだのは禅宗のテキストであって、ハイデガー研究としては『正法眼蔵』などの道元らのテキストだけで十分なのだな。

 

ヘーゲルの対立物の統一もそのあたりからだろうから、近世ドイツ哲学の研究は禅宗のテキストを読めばより理解が増すのかもしれない。

 

ヘーゲルが具体的にどんなテキストを読んだのかは知らんがな。

 

そもそも、そんなこと研究して一体何になるのかとか僕には一切分からないし。

 

…。

 

僕も皆が元ネタを知らない小難しい話をパクってしれっとしてたら、お金貰えて尊敬されるお仕事に就きたい。

 

次。

 

…なのだけれど、以下の内容はクッソ激烈にどうでもいいそれになる。

 

…。

 

一個前の話もどうでもよくありませんでしたか…?(小声)

 

…。

 

さて。(目逸らし)

 

個人的に最近、進化論とか古代中国とか古代インドとかの事ばっかりやっている。

 

結果として、人類が染色体を減らしたという出来事がどういう話なのかを理解した。

 

『なるたる』の最終話は近親相姦不可避だけれども、その事柄を生物はどのようにして経るかが最近分かった。

 

この記事の内容ね。

 

『進化の存在証明』というリチャード・ドーキンスという進化論者の本を読んで知ることになった。

 

なので、そのことについて書きたいのだけれど、もはやなるたるも鬼頭先生も一切関係ないというどうしようもないあり様。

 

読む必要ないんじゃないですかね…?これ。

 

でも僕が書きたいから書いていく。

 

進化論の本を数冊読んで分かったことがあって、数少ない個体だけで繁殖するというのは割とよくあることらしい。

 

種分化というものがある。

 

ある共通の祖先を持つ生物が、Aという種とBという種に分かれる現象のことを種分化という。

 

色々な種がこの地球上には居るのだけれど、種分化とはそもそもに、大きな個体群から隔絶された小さな個体群が生まれた時に出来てくるのであって、どうも隔絶する際に存在した個体がオスとメスのペアの二匹だけとかそういうレベルでもあり得るらしい。

 

つまり、大きな集団から離れてその集団から遠い場所に辿り着いたのはつがいの個体だけしか居なかったけれど、普通に繁殖して普通に種として成立したのだろうという生物が実際問題として存在している。

 

そのような近親相姦しか繁殖方法がないような場合でも生物は存続できるわけであって、事実としてそのような出来事は生物に起きている。

 

その島に初めて訪れた個体は流木に数匹だけ乗ってきたというパターンしか想定できないような生物が居たりして、それでもその島でその生物は種として存在している。

 

数匹しかいなかったのに繁殖に成功した以上、その生物は近親相姦を経て、けれども死に絶えずに確認されているということであって、近親相姦は必ずしも致死的であったり絶対に避けなければならない振る舞いであるとは言えないらしい。

 

人類も恐らくは一つ程度の家族で放浪した末に、他の仲間が存在しないような地域にたどり着いてしまい、そこで種分化の際に起きうるそれと同じように、繁殖相手の不足から家族内で生殖を行ったということだと思う。

 

トヴァ・カタストロフとか関係なしに、普通にそういう風にはぐれた家族集団が歴史上に存在しただけになる。

 

トヴァ・カタストロフは滑走キで言及されていましたね…。

 

先に挙げた流木に乗った生物、確か具体的にイグアナだったと思うけれど、それは別に火山噴火とかそういう特殊を一切抜きにして、普通に近親相姦しか繁殖方法がない状況に追い込まれて且つ、普通に今現在まで現存するのであって、人類の場合とて火山噴火による地球寒冷化とかそんな特殊な状況を想定しなくても、他の個体群からはぐれた家族集団が居て、彼らが繁殖に成功したと想定すれば起き得るそれでしかない。

 

僕らが普通考えるより遥かに遺伝子は存続できない。

 

1万年後だったらほんの数%の個体しか遺伝子の存続には成功しない。

 

逆説的にそれくらい滅んでいる。

 

1万年後には、一クラス分の人数の誰一人とて、子孫が残っていないという場合も多々ある。

 

それ程に無数の試行回数があって、それ程に無数の失敗がある。

 

けれども、成功した個体群は爆発的にまた増える。

 

試行回数が桁違いにあるから、そのような近親相姦で生き残るパターンが出てきただけになる。

 

その近親相姦を行った個体の染色体がちょうど隣同士でくっついただけであって、それ以上でもそれ以下でもない。

 

僕らの祖先はそれを行って偶々生き残ったけれど、近親相姦を行って滅んだパターンは累々とあったのだろうと思う。

 

ただ無機的な事実として失敗した彼らは滅んだ。

 

成功した生物が後の時代に繁殖した。

 

ただある事実はそれだけ。

 

人間とて生物なのだから、他の生物と挙動を大体にして異にはしない。

 

シャーレの上で細菌を増殖させる実験を一度は見たことがあると思う。

 

1個体の細菌が、瞬く間にシャーレを覆いつくすほどに増殖する。

 

タイムスケールが違うだけでやってることは人間とて同じだ。

 

ほんの少し生き残ればシャーレの細菌のように人間とて蓋い尽くすようにまた増殖するし、それに成功した個体の子孫以外は多く滅びる。

 

環境変化云々ではなくて、種分化は他に仲間の個体が居ない所に行きついただけで平然と起きる。

 

ある種のイグアナは流木にしがみ付いてその島にやってきたらしく、遠い海の向こうにしか生息していなかった。

 

けれども、その島に来たイグアナは、そのわずか数匹の個体群から当然のように新たな種として成り立つほどに増殖し、現在まで存続した。

 

人間も似たような状況を経たからこそ、染色体が類人猿に比べて2本少ないと考えられる。

 

染色体が減ったという事実がある以上、人間は近親相姦を行ったと考えたほうが今僕が持っている材料では妥当になる。

この奇跡とも呼べる偶然、偶然にも近親相姦を行わざるを得ないような少人数しかいない時に、偶然にも遺伝子が減少する突然変異を起こすという出来事。

 

そんなことは本当にあり得るのか?

 

実際は殆どあり得なかった。

 

何せ、1400万年あってもたった一度しか起きてない程度の低い頻度でしか起きていないのだから。

 

オランウータンとチンパンジーの染色体の数は同じ48本で、人間とオランウータンが分かれたのは分子時計ではかると1400万年前の出来事らしい。

 

つまり、人間が染色体を減らすという出来事はこの1400万年で一度の頻度でしか起きていない。

 

まぁ1400万年もあったら、試行回数は僕にはもう試算もできないくらい膨大なのだから、そんなケースが存在しても何も不思議じゃない。

 

神学者はあまりに精巧な人間の作り、生物の作り、その複雑さに神という理由を求めるけれど、時間が解決してくれる。

 

進化論のベースとなるタイムスケールなら、それは十分に起きうることでしかない。

 

要するに、人類の染色体が類人猿より2本少ないのは、ただ普通に長い時間の中で隣同士の染色体がくっつくという突然変異を経験した個体が生殖に成功したというそれだけの事実に基づいている。

 

それを可能にする時間は十分にあった。

 

1400万年前にオランウータンから分かれて一度しか起きてない"ほど"の出来事でしかないのだから。

 

1400万年というとイメージし辛いけれど、数学的にどれ程の試行が出来るか試算したら、きっと数十億は下らない試行回数が存在すると思う。

 

その中でたった一度成功すればいい。

 

何も難しくない。

 

というか、逆にそのように染色体同士がくっついて染色体の数を減らしたような個体が生殖できる場合は、そのように生殖の対象が子の世代にしかいないような場合しかないわけであって、そのような個体にとっては千載一遇のチャンスになる。

 

染色体が減るという出来事はそんなにやたらめったに起きることではないのであって、染色体が減った個体同士が出会うという出来事はそうそう多くない。

 

偶然にも同じ箇所の染色体がくっついた男女が偶然にも巡り合って生殖に成功する可能性は限りなく0に近いそれだと思う。

 

でも、そのような染色体の少ない個体が生殖に成功し得る状況は存在していて、それは家族内にしか生殖の対象が存在しない場合であって、子は1/2の確率で自分のように染色体を減らしている。

 

染色体を減らしても子を作ること自体は出来るらしくて、ただそれより後の世代だと染色体が揃わないと安定しないらしい。

 

純粋に、ただ単にそういう状況でしか染色体を減らした個体は安定して生殖できないからこそ、ただ普通にその個体が生殖に成功しただけであって、変な話でもありはしない。

 

近親相姦について、僕らはただそれだけで異常だと考えるけれど、少なくとも種分化というシステムは近親相姦を前提にしている場合が多くて、遺伝子のプール…という言葉は小難しいから使いたくないけれど、それが大きな場合は遺伝子は均等化されている。

 

種が分かれるような場合は小さな遺伝子のプールが大きなそれから分かれたような場合が殆どになる。

 

だから、人類はそのように家族集団が何処かに進出して、けれども繁殖対象が家族内にしかおらず、結果近親相姦を行ったというだけになる。

 

一方で、同じようなことをして失敗した個体群は無数にいた。

 

ただ単に、成功した個体群の子孫だけしか観測できないのであって、特殊はそこにはありはしない。

 

だから、人類の染色体が減ったという出来事は別に変な話でもないし、進化論の時間スパンで考えると、"あり得る"それでしかない。

 

…以上の事柄については、正直僕は科学者ではないので確証はない。

 

種々の進化論の本に書いてある内容を総合して判断して、恐らく人間が経た出来事はそのようなものであるのだろうという話です。

 

全く同じ話を進化論に関する本で読んだわけではない。

 

正誤は読んだ個人個人に判断してもらいたい。

 

読んでいただけたかどうかも定かではないけれど。

 

・追記

後日、モウコウマとイエウマという馬は、それぞれ染色体が六十六本と六十四本で本数が違うのだけれど、その雑種の馬は染色体が六十五本なのに生殖可能らしいということを知ることになった。

 

…。

 

要するに、近親相姦をしなくても染色体を減らした個体は別に生殖自体は出来るから、近親相姦を人類が経ていたとは必ずしも言えないということが分かった。

 

まぁ、情報は刷新していけば良いので、新しい判断に理解に修正していけば良い。

 

ただ、大枠の話は変わっていない。

 

1万人居る中で、染色体を減らした人物が一人いたところで、その集団の中で彼の子供たちのみが生き残るという事態は殆ど起きない。

 

それよりも、50人ほどの小さな集団の中で染色体を減らしたという出来事が起きて、その小さな集団に生まれた子供たちが全て彼の子供たちになった後に、また数を増やして、彼らの子供たちの中から人類が出たと考えたほうが良いと思う。

 

それでも結局は、近親相姦とは言えないまでも、酷く近い遺伝的な距離での交配が起きたということは変わらなくて、染色体を減らした個体の生殖の相手が1~2等親の近親相姦であるとは言えなくても、どの道、近いところで生殖は行っていたと思う。

 

染色体を減少させた人間は別に普通に生殖できるとしても、それが主流派になるには1万人の集団で起きたという事よりも、小さな集団で起きた場合の方が、彼の子供が主流派になる概算が高い。

 

まぁ、人類の歴史の中にトヴァ・カタストロフィという話があって、その時に本当に僅かな人数の集団になったと遺伝子を調べた時に分かるというし、そういうことを人間は経ている。

 

ただ、染色体を減らしたという出来事は、このトヴァ・カタストロフィの時ではないと思う。

 

何故と言うと、トヴァ・カタストロフィは七万年前なのだけれど、それより以前にホモ・サピエンスから分かれたネアンデルタール人の染色体の数はホモ・サピエンスと同じだからになる。

 

トヴァ・カタストロフィで小さな集団にはなったけれど、それとは別に、何度か人間はそういう小さな家族集団になったり、また数を増やしたりをしているらしい。

 

だから、その集団が小さい時に、遺伝子が減ったというのが妥当な理解だと思う。

 

ちなみに、僕らの祖先にあたる人々がそういう小さな集団になった傍らで、僕らに直接血の繋がりのない人類は同時に存在している。

 

そういう集団が無数にあって、時に勢力を拡大したり、時に数を減らしたりを繰り返して、数が増えた時に分裂して、時に集団は絶滅して、というのが無数にある。

 

ただ、僕らの祖先にあたる生物が生き残った集団に所属していただけで、傍らに無数の集団が居て、同じような営みを経ている。

 

人間が特別だから、ではなくて、結果として人間の祖先にあたる生物が生き残ったからこそ、僕らは生きているに過ぎない。

 

話としては、近親相姦を経ていたとは必ずしも言えないけれど、染色体を減らした頃の僕らの祖先は、かなり近い血縁の中で生殖を行ったのだろうという話。

 

追記以上。

 

次に、僕は『失われた範列』という本についていくらか言及した。

 

あのね、この記事に言及のあるホモ・デメンスの出典っぽい本ね。

 

進化論のことをちょいちょいやっていた結果、なんでモランさんがあんな話していたのかをようやっと理解することが出来た。

 

『失われた範列』という本に於いて、実際問題としてホモ・デメンスは比較的どうでもいい概念になる。

 

一番重要なのは恐らく、延長された幼児期と、それに付随して発達した人間の文化についてになる。

 

で、その延長された幼児期という謎の概念なのだけれど…これが何なのかが最近分かった。

 

これって…スティーブン・ジェイ・グールドのネオテニーの議論の延長ですね…。

 

(スティーブン・ジェイ・グールドさん。1941-2002。画像は英語版Wikipediaから)

 

多分、モランさんはグールドさん系列の本を読んだんでしょうねー。

 

クソが。

 

どういうことかを書いていく。

 

まず、グールドさんは進化論者です。

 

彼の本は日本でも翻訳されていて、一番有名なのは…『ワンダフルライフ』辺りなのだろうか。

 

読んだことないから詳しくないけれど。

 

彼の議論の中でネオテニーというものがある。

 

ネオテニーというのは、まぁ例えばウーパールーパーのことです。

 

(Wikipediaより)

 

実はウーパールーパーってまだ変身を一回残してるんですよね…。

 

僕らが想起するウーパールーパーはとぼけた顔をした画像のそれだけれど、実はもう一段階変化があって、爬虫類っぽいのに変化することが出来る。

 

まぁ実際見てもらったほうが早い。

 

(同上)

 

これがウーパールーパー(メキシコサラマンダー)の最終形態になる。

 

えぇ…。

 

そんなウーパールーパーなのだけれど、成熟していない上の画像の状態の時点で生殖ができる。

 

わざわざきっしょい最終形態にならなくても、生殖できるんですよね。

 

まぁ元々気持ち悪かったと思うけれど。

 

このように、幼児というか幼獣の形態でなおかつ生殖のできる生物のことをネオテニーという。

 

そこまでは良いのだけれど、グールドなどは人間を猿のネオテニーだと考えた。

 

理由は猿の赤ちゃんが人間とそっくりだからとかなんとか。

 

その議論の延長で幼児期の延長というものが出てくる。

 

グールドなどの進化論のグループは、人間を生物の頂点だと考えた。

 

で、そこから色々考えて、人間が他の生物と大きく違っているという前提で、その特殊性についていろいろ議論があった。

 

その議論の中で、人間が特殊なのは幼児のまま成体になった猿だからだという話がある。

 

その根拠として、この画像が使われる。

 

(http://1000ya.isis.ne.jp/1072.html)

 

左がチンパンジーの幼体で、右がチンパンジーの成体。

 

左はまるで人間みたいだぁ…。

 

ということがあって、人間はチンパンジーのネオテニーだという議論があった。

 

人間は幼児状態が延長されてそのまま成人になったんだよ!って感じで。

 

さて。

 

問題は何かというと、左のチンパンジーは剥製なんだよなぁ…。

 

純粋に、チンパンジーの幼体はあのような姿勢を取らないし、取れない。

 

ただ単に、チンパンジーの幼児の姿勢について詳しくない誰かが人間基準で剥製にした結果出てきたそれでしかない。

 

なのだけれど、グールドらのグループはこれを人間ネオテニー説の根拠とした。

 

幼体の頭蓋骨とかは人間もチンパンジーもある程度似ているのだけれど、姿勢に関しては全然違うとリチャード・ドーキンスも言及している。

 

他にも人間をネオテニーとする理由はあるのだろうけれど、ぶっちゃけ、見比べてみるとあんまり似てないんだよなぁ、チンパンジーの幼体と人間。

 

加えて、人間に体毛が少ないという事実から、人間は毛の抜けた猿であるという発想があって、それは毛が生える前に成熟したのだろうという推測があったりもする。

 

けど、チンパンジーの幼獣って幼獣の時点で既に毛が生えてるんだよなぁ。

 

思い付きで色々学説を出すのはいいけれど、もう少し検証してからにしてほしい。

 

・追記

どうも人間は猿の胎児と同じように毛がないが故に、という話で、幼体とは言っても胎児の話としてのそれがネオテニーの議論らしい。

 

胎児ねぇ…。

 

毛すら生え揃わない胎児の状態のまま生まれて来たら死ぬと思うのだけれど。

 

ネオテニーであるという前提を押し広げて、無理矢理に人間の色々な形質をそれに帰そうとしてブルシットになってるようにしか思えない。

 

頭髪や陰毛の存在を無視する態度、嫌いだし好きじゃないよ。

 

ただ、僕の専門はそうした生物学ではないのでこれ以上は…ね。

 

追記以上。

 

さて。

 

話を戻すと、『失われた範列』なのだけれど、どうも人間が持つ文化という優れた概念は、延長された幼児期に理由があるらしい。

 

延長された幼児期…。

 

…。

 

あっ(察し)

 

まぁ、『失われた範列』自体は、生殖可能になった後も母親から離れない人間の特性が文化を生んだとかいう議論なのだけれど、別にコウモリや鳥の群れは生殖可能になっても親から離れないことも多いし、色々ガバガバなんだよなぁ…。

 

グールドらと同じように、人間が他の生物に比べて優れていると誤認識していたり、まぁ情報の出所さんはグールド系列の進化論の本だと思う。

 

『失われた範列』を読んで抱く憤懣を色々書いても良いのだけれど、書いても仕方ないので『失われた範列』についてはこれくらいで。

 

クッソ激烈にどうでも良いことばかり書いているけれど、他に書くところもないからしょうがないね…。

 

さてもう書くことはないかな…?

 

どうでも良い事柄ではあるのだけれど、アメブロにはペタという機能がある。

 

いいね!に加えて、ペタというものがあって、いわゆる一種の足跡機能になる。

 

それについてなのだけれど、ずいぶん前から午後1時過ぎに必ず一件ペタがついていた。

 

それも複数のアカウントから、必ず数分ずれて同じ時間に。

 

で、そのアカウントのサイトに行ってみたら当然の権利のように閉鎖されている。

 

BANされたアカウントが代わる代わる毎日毎日、僕のところにペタを残す。

 

一年以上同じように同じ時間に毎日違ったアカウントからペタが一件…。

 

普通に考えて、誰かがプログラムを作ってbotを作ってそういうことをやっていたのだろうけれど、誰が一体何のためにそういうことをしているのかがさっぱり分からなくて、意味が分からな過ぎて何処でも言及できなかった。

 

意味不明過ぎる。

 

で、数週間前にそのペタが途切れた。

 

誰が一体何のためにそんなプログラムを作ったのか、そして、一体なぜ今更になってそれを解除したのか。

 

全てのことが意味不明過ぎる。

 

前々から気付いていたけれど、意味不明過ぎて僕自身コメントに困っていた。

 

どうしようもないね…。

 

まぁ、そういう意味の分からないことをする人も居るのだけれど、コメントがそういう人種によってなされるということがないわけではない。

 

イラっとするコメントが来ることもある。

 

特にハンタの記事に来たコメントは、マジであ?って思った。

 

念が非能力者に見えない設定知らないようなやつがあんな記事書くわけねぇだろ。

 

正直、イラっとした。

 

後に気付いたけれど、第一具現化した時点で一般人にも念は設定上見えるんだよな。

 

それなのにあの場に百式観音が描写されていない以上、あの場に百式観音は居ないんだよ。

 

そういう風にイラっとしても仕方がないし、紳士風に振舞って真摯に対応するというのがベターな対応なのだろうけれど、僕だって人間なのだから、色々な感情は抱く。

 

(冨樫義博『HUNTER×HUNTER』11巻p.29)

 

そういうコメントは別にハンタの記事に限ったことではないし、このサイトについて関知しないと記事で言及した後に、少なくとも2件来ていて、色々思うところはあるけれど、イラっとするのは止められない…というか、生理的な現象だと思う。

 

2年以上前に書いた事柄について、更に関知しないとまで言っているのに今更とやかく言われて、ストレスを感じるなという方が無理だと思う。

 

でも、アキラの記事に来た、頭の悪い決め付けが多いなさんの「頭の悪い決め付けが多いな」というコメントについては、よく考えてみたら頭の悪いことばっかり書いているし、決めつけも多いから何も間違ってないのであって、最初感じたイラつきはしばらくして解消した。

 

確かに、頭は悪いし決めつけも多かったなと思った。

 

だけれども、今後久しぶりにこのサイトの管理画面を覗いて、返信しないと言っているのにまたクソみたいなコメントが来ていることに気付いて、あ?って思うのも正直無駄だと思うので、コメントの一切を出来ない設定に変えることにする。

 

しばらくは…まぁ、新たになるたるの新装版を読んだ人も居るだろうし、コメント欄はそのままにしておくけれど、その期間が済んだらコメントを出来なくします。

 

誰が悪いかと言えば、クソみたいなコメントが来た時にイラついてしまう僕が全面的に悪いのだけれど、ロハでこんなことやって更に苛立たされていては割に合わないので、こういう処置にします。

 

この記事だけで6時間かかってるんだよなぁ…。

 

それなのに苛立たされてたら割に合わないなんて話じゃない。

 

大量に色々書いて、明確に言及できる得たものは『彼の殺人計画』と『風の王』のスキャンしたデータを貰えたことくらいが精々だろうので、これ以上僕を煩わせないでほしい。

 

僕が見つけたわけじゃないけれど、このサイトの名前を挙げて、

 

「知っているブログの中でもかなり気の違ったもの。

鬼頭莫宏のなるたるについて、哲学科出身の真正オタクが一から十まで解説し尽くしている内容。狂っている。

有志による全力の解説は作品の理解に何より役に立つけどここまで来ると怖い…読めば分かる」

 

とか書かれているのを読んだことがあった。

 

いや、気が違っているとかそういう言及はまぁいいのだけれど、真正オタク扱いが良く分からないんだよなぁ…。

 

気が違っているとかはまぁ、僕自身が読み返してみて、「頭おかしいんじゃねぇのコイツ?」って思う記事があるから別に…。

 

まぁいいや。

 

読んで色々納得したり、何かを得たりする人も居るのかもしれないけれど、確実にキモいとか気が違っているとか判断する人も居るのであって、そういう人は結構辛辣なコメントを残すのだろうと思う。

 

今書いている内容についてそう言われるなら色々対応しようとは思うけれど、二年以上前に書いた事柄について今更言われても、僕としてはどうでもいいという事柄以外想起されない。

 

それに、補完のためにこの記事を書いたけれど、僕は今普通に古代インドとか古代中国とか進化論について関心が向いていて、漫画のことは比較的にどうでもいい。

 

特に鬼頭先生の漫画については、それこそ骨の髄までしゃぶり尽したのだから、今更新鮮なものは何もない。

 

『なるたる』などを最近読んだ人にとっては新鮮なそれなのだろうけれど、初めて読んだのが10年くらい前の漫画について、今更情熱を保てない。

 

僕自身が解説のために多く触れていた時期だって二年前なわけであって、関心を保てというのも色々無茶がある。

 

来るコメントにある熱度と、僕が持つ情熱にあまりに差があって、そのギャップは正直きつい。

 

だからって言って、来たコメントに「知ったことではございません」とは返せないのであって、どうしようもない。

 

まぁ色々しょうがないね…。

 

コメントは暫くしたら物理的に打ち切ると言っても、僕と連絡をつける手段は一応存在するのだけれど、そこまでして何か用があるという人は想定できないので、具体的には示さない。

 

読んで何かを得られるのなら読めばいいし、珍獣や道化を見る面白さがそこにあるならばそれでも読んでいいと思うし、僕の愚昧さを笑うために読むのだって別に構わない。

 

だけれども、僕のことを煩わせないでほしい。

 

今は大乗仏教におけるキリスト教のミーム侵犯の検証とか、道教における陰陽の思想の由来の検証とかをやってるんだから、『なるたる』のことはもういいよ…。

 

そういう事柄とか、人は何故踊るのかとか、何故呪術というか占いを人は行ったのかとかそういうのをやっているから、もう、なるたるは、もう…。

 

という最後の記事。

 

まさか新装版が発売されるとは前回の記事を書いた僕は想定していなかったので、この記事は想定されていなかった。

 

そして対応を打ち切ったと宣言したのにクソみたいなコメントが来るということも想定していなかった。

 

「そうかもしれないし、ちゃんとまとめてるとはおもうけど

わざわざそんな風に言う事ないと思う」

 

ってコメントを見た時は、心の底から「それで僕にどうしろと?」って思った。

 

小学生並みの感想はやめてくれよ…。

 

それをコメントに残してどうしたいのかがさっぱり分からないし、それを読んだ僕にどうしてほしいのかがさっぱり分からない。

 

「思う」と言われても「はぁ、そう思っているのか」以上のことは抱けない。

 

まぁ柔らかく削除要求していると分かってるからイラっとしたわけであって、そう思うのは自由だけれど、そんな叶いもしないとすぐ分かるような要求をして、人を苛立たせたいのかって思う。

 

こちとら全て無償でやってるんだからさぁ…。

 

しかも「消せということですか?」と僕がレスポンスしたならば、「そのような意味で申し上げたわけではない」って話になるわけであって、二年以上前に書いた記事に来るそんなコメントに対応するのはいやー、きついっす。(素)

 

今後、頭が悪い決めつけが多いなさんや、削除やんわり要求姉貴?兄貴?の残したようなコメントに対応する気力が僕にはない。

 

そんなコメントが来たり、新装版が発売されるだなんてことは想定できなかった。

 

過去は変えられないし、未来のことは分からない。

 

そうなのだから、仕方がないことなのだけれど、さすがにこれ以上、このサイトに何か書くことになるような契機は想定できないので、今度こそ最後の記事になると思う。

 

全てのことは去ってしまった。

 

僕にはどうしようもない。

 

では。