日記を更新する。
今回は仏教の葬儀儀礼について。
僕はこの前、NHKが出版した仏教に関する本を読んでいた。
この本はまぁ、仏教の教説の話はあるにはあるのだけれど、コンセプトとしてはNHKの取材クルーが仏教を信仰している地域に行って、現地の人々を取材して、当地の仏教徒の風習についてあれこれ言及している本になる。
NHKが映像番組を作るに際して現地の仏教徒を取材して、現地の施設と人々の写真を撮って、時々専門家に解説を依頼して、そういう形で獲得した情報を本にしたものという理解で良いと思う。
僕はこの全三冊構成の仏教に関する本を読んでいて、この本を編集している人よりおそらく、僕の方が仏教の教義については詳しいのだろうという推論がある。
…原始仏典の翻訳文を引用している箇所があるのだけれど、その引用の仕方を見るに、そのテキストが三蔵のどのカテゴリーに属しているのかを理解していないような書き方がされている場合があって、一方で僕はその記述が間違っていると分かるのだから、おそらくは僕の方が詳しいのだろうと思う。
引用している仏典の"アドレス"についての知識が曖昧なようで、個々の〇〇経と大枠の○○経典というカテゴリーが並列して区別なく書かれていて、多分、NHKの人はその辺りの違いが分からなかったのだろうなと思う所がある。
もっとも、仏教の専門家の解説が挿入されている箇所については、確実に彼らの方が僕より詳しいわけで、その辺りについては普通に僕の方が知識が少なく、ただ、本全体を監修しているNHKの人よりは僕の方が詳しそうという話になる。
ともかく、この本はNHKが番組を作るためにインドとかミャンマーに取材しに行って、その現地での話を本にしたもので、その中で気になる記述があった。
それはミャンマーの村落に暮らす貧しい人々の話で、取材クルーが滞在している村で死者が出て、それに際して埋葬の話題があった。
それを読んで僕は、やはり日本の仏教で見る葬式の儀礼は、あれは中華の文化であって、仏教の教えではないのだろうと思う所があった。
よってこの記事では、僕が知っている中華の葬式儀礼と実際に数十年前にミャンマーで行われた埋葬に関する記述、そして、仏教以外のインドの葬式の儀礼についてを比較して、日本の仏教の葬式は、あんなものは仏教でも何でもないという話をして行きたいと思う。
まず、僕は数年前に古代中国の儒教の聖典である『礼記』をクソ真面目に頭からケツまで読んでいる。
この本は儒教の論文集みたいなもので、儒教に関連する様々な話題が扱われているけれども、古代中国の場合は"礼"と言う概念が大切だから、その礼に関する記述が非常に多くて、結婚の礼、上下関係の礼、名付けの礼、服装の礼、儀式の礼、そして葬式の礼についての記述が多くされている。
それを読む限り、結婚の礼も葬式の例も、日本の結婚式や葬式で見られるような文化がチラホラと見て取れて、やはり日本のそういった儀礼は中華に由来があるという様子がある。
例えば、日本で人が死んだ時には、坊さんに頼んで戒名を付けるという文化が日本にはある。
これに関しては普通に『礼記』に言及がある。
「生まれて三か月で名をつけ、二十で元服して字をつけ、五十で伯・仲で呼び分け、死ぬと諡を贈るのは、周の礼である。(市原享吉他訳 『全釈漢文大系 12 礼記 上』 集英社 1976年年 p.194)」
この文章自体はかなり後世の注釈を参考に書かれているようで、元の文は「幼名,冠字,五十以伯仲,死謚,周道也。」になる。
日本の戦国時代にしても、幼名と元服後の名前があって、古代中国の場合は冠字として二十歳の時に名前を変えていた様子がある。
二十歳で冠を被るようになって、その冠を被る時に字(あざな)をつけるから、冠字らしい。
結局、日本の場合は十五歳で中国だと二十歳で、その辺りには差異があるとはいえ、普通に考えて元服の時に名前を変えるのは元は中国の文化だと判断するのが妥当だと個人的に思う。
そして、引用文の最後に諡(おくりな)の記述があって、これは中国の伝統で死後につけられる名前の事で、中国の皇帝には光武帝とかそういう名前があるけれど、あれが諡になる。
三国時代の曹操も死後に武帝と諡がつけられていて、こういう風に中国には死後に名前を改めてつけるという伝統がある。
一方で僕はインドにおいてそのように死後に与えられる名前という概念に出会ったことがない。
仏教の開祖ゴータマの事を仏陀と呼ぶけれど、これは修行を大成させた人というニュアンスであって、達成者とかそういう意味で、別にそういう名前が与えられたとかではなく、そういう肩書きでしかない。
僕はゴータマが死後に与えられた名前なんてものを知らないし、仏陀の弟子の名前を何人も挙げられるけれども、その中で死後に新たにつけられた名前を一つたりとも把握していない。
これを読んでいる人の中で、そのようなインドの仏教徒の死後の名前について知っている人は居ないのではないかと思う。
結局の所、戒名は仏陀の教えでも何でもなくて、ただ仏教が中国を経由したに際して、現地である中国の風習である諡が、仏教ともども日本に辿り着いたという以上の話はない様子がある。
そもそも、仏教の教えが何故尊いと言えば、一切に打ち勝ったもの、欲望の勝者にして人々の御者、 盲目の世界において不死の鼓をうたう輪廻王、やすらいに帰した釈尊の教えだからこそ尊いのであって、全く関係のない中国の周の国の風習である諡の名前が変わった戒名に、一体どんな意味があるのかとか、僕にはよく分からない。
…まぁ例え仏教の始祖ゴータマの教えであったとしても、古代インドのおっさん連中が妄想した内容に世界の真理が含まれるという議論の意味が分からないというか、実際に数十の仏典を読んだ僕としては、基本的に彼らの議論には根拠がないとしか思えなくて、本来的に仏教の教えだったとしてもそうでなかったとしても、だから何だという話でしかないとは思うけれども。
仏典を読んでいても、インドの文化についての理解が深まることや、これ中国人が書いた偽経だなと思うという出来事はあっても、何か心理的に光明が差したり、これは素晴らしい教えだとか思う事はまずないんだよなぁ…。
何より、インド人が書いた経典の場合、文化が違い過ぎて共感自体が難しいようなものも多い。
中には仏陀の弟子であるスナッカッタという人物が、全裸で四つん這いになって手を使わずに物を食べている人物を見て感動して、それを超能力で知ったゴータマがそのスナッカッタを罵る記述とかもある。
「 バッガヴァよ、じつにリッチャヴィ族の子弟スナッカッタは、狗戒をまもり、四つん這いになって、地面に散らばった食べ物を口で喰らい、口で食べている裸行者コーラッカッティヤを見ました。
見て、彼にこの〔思い〕が起こりました。
『ああ、じつに素晴らしい姿の御方だ。この沙門は狗戒をまもり、四つん這いになって、地面に散らばった食べ物を口で喰らい、口で食べている』と。
バッガヴァよ、ときに私は、リッチャヴィ族の子弟スナッカッタの心の審慮を心で知って、リッチャヴィ族の子弟スナッカッタへこういいました。
『愚者よ、それでもあなたは、釈子たる沙門を自称するのですか』と。(参考)」
別にスナッカッタが裸行の行者を見て感動するということについては、当時のインドの文化を知れば普通の事でしかない。
古代インドでは苦行が道徳的な正義だから、全裸で犬が如き暮らしをするという辛い修業を行っているコーラッカティヤを見て感動したというだけで、一方で仏教では裸行や犬のように暮らす狗戒は教義になくて、それが故に正しくない修行を見て感動する弟子を愚か者めと仏陀が叱っている場面になる。
日本人だって公衆の面前で全裸で四つん這いになって地面に落ちた食べ物を手を使わずに口で食べに行くのは嫌なはずで、古代インド人にとってもそれは嫌なことで、その嫌なことを修行として行っているのを見て感動したというだけの話で、まぁ文化を理解出来れば変な話ではない。
先の引用は原始仏典の長部経典からだけれども、原始仏典の相応部経典には異教徒について記述されている箇所があって、その中で裸行をする人々の事を「所詮、野干は野干だ」と罵る記述がある。
野干はジャッカルの事らしくて、日本語に換言すると、所詮連中は犬に過ぎないというような話になる。
原始仏典には異教徒の記述が時々あって、それに際して裸行の教義を持つ人々と、サンジャヤ・ベーラッティプッタの教えを信受する人々への当たりが何故か強くて、強い言葉で彼らを否定する記述がある。
理由は分からないけど、多分、仲が悪かったんだと思う。
そういう風にちょっと文化の違いで引くような場面があるというか、そもそも先のスナッカッタの話は、仏陀が超能力で彼の心を読んだという設定になっていて、こんなファンタジーの何処に信を置けばいいのかと思う部分はある。
普通に…原始仏典の時点でも、成立の時期が相対的に新しそうな経典だと、仏陀は当然の権利のように超能力を使うからね…。
話を葬式に戻すと、他には日本の葬式だと位牌を用意したりする。
この位牌については『史記』などに言及がある。
「 武王が即位すると、太公望が師となり、周公旦が輔となり、召公・畢公らが王の軍を司り、文王の政治を継いだ。即位の九年、武王は畢で武王の墓前にお祭りをし、東に兵を率いて盟津に行き、文王の位牌を作って中軍に置き、武王自ら太子発と称し、文王の命を奉ずるもので、自分の専断で討伐することでないことを示した。(司馬遷 『世界文学大系 5A 史記』小竹文夫他訳 1962年 p.23 下線部引用者)」
引用文の下線部に位牌についての記述があって、原文ではここは"木主"になっている。
実際、木主は現在でも使われるようで、Googleで画像検索すると以下のようなそれが検出される。
(http://kineko.matrix.jp/hagi/bokushu.html)
もう見たまんまちょっと大きい位牌だし、そもそも辞書的な意味で"木主"という語自体に位牌という意味合いがある。
(https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E4%B8%BB-397494)
今回は該当の文章を拾い出す際の利便性のために木主の話をしたけれど、呼び名は木主とは限らなくて、単に"主"と書いて、位牌を意味するという場合がある。
そういう風に"主"と書いて位牌の話をしている場合に『礼記』と『春秋左氏伝』で僕は出会ったことがあって、けれども"主"だと文章を検索するに際して、他の意味合いで"主"という語が使われている場面が検出されて、主人とか、おもだった器という意味の主器とかそういう単語が引っかかって、位牌の文脈の場合を探すのが大変だったので、今回は木で出来た位牌の意味しかない木主の話を選んだ。
『春秋左氏伝』ではそのような"主"は廟の奥にあって、それこそをその宗教施設の本体とするような話があって、神社にある御神体とかはあれは元々、この"主"である様子がある。
まぁ寺に置いてある本尊についてもおそらくはそのようなものを大切にするのはこの"主"を大切にする文化が元で、あれに関しても本来的に仏教の教えではおそらくない。
そもそも、宗派や学派によるとはいえ、魂は仏教的に存在していないはずで、仏壇を位牌に置いたところで、それは何を祀っているのかという話にはなる。
魂は存在しないということを語る経典がある一方で、死後の世界を語る経典もあって、その場合だと死後は天国か涅槃、さもなくば輪廻の旅に死者は向かったというのに、位牌や本尊は何を意味していて、どのような説明が日本の仏教ではされているのかとかちょっと僕は分からない。
中華の伝統的な風習として死者に対する儀礼があるという話は理解出来て、そういう文化なのだろうで話は終わりで、けれども、仏教としてはその振る舞いにどのような意味があるのかというのが問題で、涅槃に至ることに位牌は関係あるのか、死後の名前があると西方浄土で暮らしやすくなるのか、一回忌や三回忌は阿頼耶識(アーラヤ識)に何らか意味を成すのかという疑問がある。
古代中国だと、死後の祭祀をしっかりやらないと、夢に死者が出てきてちゃんと祭祀しろよと怒ったりする話が『春秋左氏伝』などにあるから、それは逆説的に祭祀を行うことを死者は喜ぶことを意味しているわけで、一回忌などの儀礼は死者にとって意味はある一方で、仏教の場合はそういう話はないから、何のためにやるのかは定かではない。
一応、原始仏典の『スッタ・ニパータ』や『ダンマパダ』あたりに先祖に対する儀礼の話は軽く触れる程度にはあって、けれども『礼記』のように纏まった形で説明されているテキストに僕が出会ったことがないので、古代インドの先祖に対する儀礼がどのようなものだったのか、その辺りは良く分からない。
ともかく、現代人も行う一回忌や三回忌についても、古代中国のテキストに言及がある。
「 父母の喪においては、すでに虞の祭りを行い卒哭したのちは、粗飯を食べ水を飲むが、野菜と果物とは食べない。一年して小祥の祭りを終わると野菜と果物とを食べる、さらに一年して大祥の祭りを終わると、醯醬を用いる。(市原享吉他訳 『全釈漢文大系 14 礼記 下』 集英社 1979年 p.385)」
ここに言及のある小祥が一回忌の事になる。
一方で大祥が現代日本の三回忌にあたる儀式にはなって、どうも古代中国では2年で行うものであったらしい。
…この記事を書くまで把握して無かったのだけれど、そもそも現在日本の三回忌が、名前とは裏腹に二年経ったらやるものらしくて、まんまこの大祥が元らしい。
大祥はどのくらいの期間を経てからやるかについては孔穎達の『礼記』の注釈である『礼記註疏』を確かめたところ、このテキストの六巻に魯の大祥は二十五カ月で行うという記述があった。
着物を着る時に左前を死者の服装として、それを間違いとするような発想が日本にはあって、その文化についても死者と生者の"別"として、生者は右を前にするという記述が『礼記』に確かあったし、日本の仏壇だとご飯を用意したりする文化もあって、このことについても『礼記』に言及がある。
…初めて読んだのが昔過ぎてその箇所をメモとして残しておらず、今回、該当の文章は拾い出せなかったけれども。
喪主もこの前言及した通りのそのまんま"喪主"と言う語で『礼記』に記述があるし、香典についての話も確かあった。
他には、死者の顔に布を被せる振る舞いについても『礼記』に言及があったし、日本の仏教だと菩提を弔うとして、墓が大切にされている部分があって、墓を大切にする話は『史記』や『墨子』に言及がある。
その辺りもやはり、中華由来らしい。
そして、死体は棺に入れるという文化が日本にはあって、この事も『礼記』に言及がある。
「 天子が崩じたとき、三日めに喪礼を助ける祝がまずつえを取り、五日めに大夫・士がつえを取る。七日めに畿内の男女庶人が喪服をつけ、三月めに畿外諸侯の大夫が喪服をつける。かりもがりになると、山沢をつかさどる虞人は、各地の社に生えている大木で、棺椁を作れそうなものを報告させて伐採する。もし報告しない者があれば、以後、その所の祭祀を廃止し、係りの人を死罪とする。(同上『礼記 上』 p.299)」
こういう風に棺を作るという発想が古代中国にあるということが分かるし、天子、すなわち中華で一番偉い人が死んだ時は、社にある大木を使うとある。
この社は日本の神社と同じものらしくて、以前言及したことがある通りに、この社に何を祀るかは『独断』に言及がある。
その記述を見ると、日本の神社で祭られるものの中で、大国主などといった『古事記』や『日本書紀』に言及のある神々以外が祀られているパターンである、氏神に類似した概念である社稷の神と、過去の偉人が古代中国では祀られていた様子がある。
金毘羅とかそういった日本で信仰されている神が祀られている神社があって、一方で地域の小さな神社には氏神が祀られていて、どうもここで言う氏神の"神"というのは、古代中国の社に祀られた"神"と同根のものである様子がある。
その古代中国で"神"を祀っていた社に大木があるわけで、一方で神社には大木が植えられている所があって、あれはどうも中華の伝統の延長線上にあるらしい。
結局の所、神社についても中華にルーツがある様子があって、それだけではなく日本の葬式もおそらく中華の伝統の延長線上にあって、日本人だと普通に生きている限り葬式くらいでしか仏教との付き合いはないけれど、あれは元は中華の儀礼らしい。