書いていくことにする。
まず、この記事のコンセプトから説明すると、『ぼくらの』のアニメ版のオープニングである『アンインストール』という曲について、僕は漫画の方の『ぼくらの』の解説をするに際して、ちょいちょい、原作の描写との類似点を指摘して、あの歌詞は『ぼくらの』のこの場面をイメージして作られているのだろうという話をしてきた。
今回はそれを『アンインストール』という曲全体でやろうという話で、このことについては企画自体は随分前から脳内にあって、けれども、めんどくさいという、こればかりはどうにもならない事情があって、後回しにしてきたそれになる。
ただまぁ、今回は他の漫画の解説を後回しにしたくなったので、『アンインストール』について色々書いていくことにする。
まず、アンインストールの作詞を行った石川智晶先生は『ぼくらの』を読んでいるのかという話から初めていくことにする。
…石川智晶さんのことをどのように呼称しようか迷ったけれど、僕の方で音楽家の敬称の付け方とか良く分からないし、僕の方でこういう記事を作る時、いつも漫画家を先生と呼んでいて、その敬称に慣れていて僕がやりやすいという理由で、石川先生と呼ぶことにします。
結局、作詞した人が『ぼくらの』を読んでいるということが無ければ、両者に類似した描写があったところで、それは偶然似てしまったとか、似ているように見えるだけという形でしか処理できなくて、実際問題として、OP曲と作品自体に関係性がないアニメや、関係性はあるけれど、ざっとあらすじを聞いただけで曲を作ったような場合もあって、必ずしも作曲家は原作を考慮するということもない。
『新世紀エヴァンゲリオン』などは、アニメが完成する前に大体どういう話かを聞いて、そこから曲を作ったらしい。
だから、『アンインストール』と『ぼくらの』の類似点をあれこれ言うこの記事のコンセプト的に、石川先生が『ぼくらの』を読んでいなければ話が始まらない。
けれども、その辺りについては運良く読んでいると分かるような文章が存在していた。
アニメ版『ぼくらの』のオフィシャルガイドブックに載っている、鬼頭先生と石川先生との対談にその話がある。
以下に引用するのは、『アンインストール』を鬼頭先生が聞いて、その感想を伝えた後に、反対に石川先生が『ぼくらの』を読んで、どう思ったかを言及した場面です。
「――逆に石川さんから見た原作の感想をうかがえますか。
石川 いつも私は、原作もののアニメの主題歌を書くときは、原作を読み終えた直後の自分の雰囲気を込めるようにするんです、でも『ぼくらの』ではちょっと腕組みして考え込みました。
TVで流れる曲としての枠組みと、原作の持ち味であるクールで温度が低い感じのバランスをとるのが大変で、率直に言ってハードルの高い作品でした。
でも一方で、ひとつハードルを越えてしまった後は、今まで手がけてきた中で、一番悩まずに書けた作品でもあるんです。曲が出来た瞬間に「これしかない!」って感じがしたんですよね。(『ぼくらの BOKURANO OFFICIAL BOOK』 小学館 2008年 p.150)」
どうやら石川先生は、アニメ作品の仕事が来た場合には、作品にしっかり目を通してから、原作にあった曲を作るような人であるらしい。
…まぁお仕事でやってるんだからそうするのは当たり前と言えばそうなのだけれども。
ともかく、引用文を読む限り、『アンインストール』という曲は漫画版『ぼくらの』を下敷きに作られているらしいということが分かって、ならば両者に類似点があるという場合は、『ぼくらの』を読んで得た情報が『アンインストール』という曲に用いられたからこそ、そうなっていると判断しても問題はないだろうという話で、以下では『アンインストール』の歌詞を持ってきて、原作のこの場面をイメージしているのではないかという話をして行くことにする。
ただ、アメブロの規約的に歌詞の引用は出来ないので、全体の歌詞は「石川智晶 アンインストール」とかで検索して出てくるそれを参照してください。
実際ググったら歌詞サイトが検出されたよ。
まぁとにかくやって行くことにする。
ここでBGM代わりにニコニコにあった『アンインストール』の動画を用意しましょうね。
まず初めに、「あの時、最高のリアルが向こうから会いに来たのは」というフレーズについて。
これについては直接的に『ぼくらの』作中でこれが由来であろうと指摘できる場面はない。
けれども、最高のリアルというのはおそらく、ゲームという名目で誘われた、避けられない死を伴う殺し合いの事の話で、『ぼくらの』でジアースのパイロットになることを言っていて、「向こうから会いに来た」というのは、コエムシがココペリ編で子供たちを呼びに来た場面なのではないかと僕は思う。
(鬼頭莫宏『ぼくらの』1巻pp.42-45 以下は簡略な表記とする)
コエムシの側から会いに来ていて、この場面のイメージが先の歌詞なのではないかと個人的に思う。
石川先生本人は「いつも私は、原作もののアニメの主題歌を書くときは、原作を読み終えた直後の自分の雰囲気を込めるようにするんです(同上)」と言っていて、正確に作品を再現するというよりも、インプレッションを受け取って、そこから歌詞にしている様子があって、イメージとして、『ぼくらの』で死というリアルが向こうから会いに来たという表現は『ぼくらの』本編とズレているということも無い。
ただ、事の始まり自体はマチが洞窟の中の隠し部屋に誘導したところからなわけで、向こうから会いに来たのではなく、子供達から会いに行っていて、じゃあ向こうから会いに来たと言えるような場面は何処かと言えば、やはり、コエムシが向こうから訪れたところになると思う。
次の「僕らの存在はこんなにも単純だと笑いに来たんだ」については、『ぼくらの』全体で命が軽々しく失われるわけであって、ロボットを一回駆動させるための燃料としての存在でしかないのだから、そのイメージなのではないかと思う。
「笑いに来たんだ」云々については、コエムシの顔に意地の悪い笑顔が貼りついているし、コエムシ自身も序盤は騙されちゃって馬鹿だねぇという感じの軽い嘲笑の気持ちで子供たちと接しているから、そういうニュアンスが元だろうと思う。
(2巻pp.33-36)
その次の「耳を塞いでも両手をすり抜ける真実に惑うよ」に関しては、追い詰められまくっていた時のカコのイメージなのではないかと思う。
カコは布団にくるまって、雨戸を閉じて情報を遮断している描写がある。
(3巻p.8)
こういう風に情報を遮断しているけれども、そんなことはお構いなしにコエムシはやってくる。
(3巻pp.11-12)
個人的にこの辺りが「耳を塞いでも」云々の歌詞の元なのではないかと考えている。
耳をふさぐのは情報を遮断するためで、それだというのにそれをすり抜けるかのようにこれから死が待っているという真実がコエムシと共に訪れる。
そう言ったカコの描写が、あの歌詞の元であると僕は思う。
続く「細い体の何処に力を入れて立てばいい?」に関しては…具体的にどのシーンということはないけれど、『なるたる』期から『ぼくらの』の前半くらいまでの鬼頭先生の描くキャラクターは非常に細いのであって、その話をしているのではないかと思う。
ただそうと言えども、『ぼくらの』という作品だけを見ると、そこまでキャラクターの線が細いという印象は受けない。
一方で『なるたる』では見るからに線が細かったのであって、もしかしたら石川先生は『アンインストール』のために『なるたる』の方も目を通していて、そこで細い体という心象を抱いたりしたのかもしれない。
(鬼頭莫宏『なるたる』p.45)
『なるたる』の時はバリ細くて、けれども、『ぼくらの』の頃合いだと、細いは細いけれど、印象に残る程かと言えばそれ程でもない。
(5巻p.104)
そういう事情があって、僕は個人的に石川先生は『なるたる』の方も読んでいるのではないかと思う。
細い体云々の歌詞の次には、アンインストールというコーラスが入って、その後に、「この星の無数の塵の一つだと 今の僕には理解できない」という歌詞が続く。
これについてはおそらく、マキ編の最後の無数に光る命の灯の描写が元だろうと僕は思っている。
(5巻pp.149-151)
塵と命の光とではニュアンスに差異があるけれど、『ぼくらの』作中の描写だと砂粒のように光が描かれていて、それを塵と表現するのは乖離した理解ではないと思う。
結局、『ぼくらの』作中の子供達にしたところで、この星に光る一つ一つの小さな光と全く同じそれでしかない。
『ぼくらの』では自分の事を特別だと思っているコダマや、自分が大物になると思っているキリエの同級生とかが出てきていて、彼らとてこの光と同じだけれども、『ぼくらの』では簡単に握りつぶすし、この無数の光の一つだと急に言われて戸惑うということも分かるし、理解できないと言われてもそうだろうと思う。
(2巻pp.26-28)
(5巻p.170)
特にスクールカーストの低い同級生の死などどうでも良いと思っている彼らは、自分自身もこの星の無数の塵の一つだと言われたところで、理解できることはないだろう話で、先の歌詞はこういった『ぼくらの』作中の描写が元なのだろうと僕は考えている。
次に「恐れを知らない戦士のように 振舞うしかない」については、少し難しいところになる。
まず、恐れを知らない戦士のようにということは、本人は恐れを抱いているという話になって、そうとするとジアースを操縦したら死ぬと判明したダイチ編より後から、キリエ編の間の描写が元なのだろうという推論がある。
『ぼくらの』のアニメ化の時期には、キリエ編までしか描かれていないのだから、その辺りの描写までしか『アンインストール』の歌詞については『ぼくらの』が元であるとは判断できない。
だから、それぞれパイロットが恐れを知らない戦士のように振舞ったかどうかを見ていくのだけれど、その中でナカマの描写に、恐れを隠しているようなそれがある。
(2巻pp.197-199)
ナカマは内心、死の恐怖におびえているというのにユニフォームを着て平静を装っていたわけで、けれども、実際はただそれを隠しているだけで、どうしようもないから、私がやらなきゃいけないんだからという話をしている。
「恐れを知らない戦士のように 振舞うしかない」という歌詞で、「しかない」という部分については、ナカマが言っている「どうしようもないじゃない。どうしようもないんでしょ?」というセリフと合致していると個人的に思う。
だからあの歌詞はナカマの台詞が元なのだろうと僕は思う。
…ナカマの台詞の「どうしようもないじゃない。どうしようもないんでしょ?私がやらなきゃ…」って、陰った精神性の発露なんだろうな…て。
僕は改めてナカマの台詞を読んで、「分かる分かる(タメ口)」と思いました。(小学生並みの感想)
次は二番の歌詞に移って、「僕らの無意識は勝手に研ぎ澄まされて行くようだ ベッドの下の輪郭のない気配に この目が開くときは」というそれがある。
これについてはおそらく、マキ編の描写が元だと思う。
マキ編では、眠ろうと横になっている時に、何か気配を感じて目を開く描写がある。
(5巻pp.99-100)
結局、この場面ではコエムシの気配に気が付いて、コエムシを見て戦闘の開始を知ったわけで、描写的に研ぎ澄まされた精神状態で、戦いの訪れを察知したと読み取れるようなそれになっている。
それを無意識と表現するのは間違っていないと思うし、歌詞を考えるに際して、『ぼくらの』というSF作品という要素を抜きにした時に、空中に現れた何かを察知して目を開くというのは突飛になってしまうという事情がある。
その辺りはあくまでインスピレーションの元になっているのが『ぼくらの』という作品というだけの話で、作品を完全に再現することが目的ということも無くて、この場面のイメージとして、部屋の中の輪郭のない気配を読み取ったという話で、横向きに寝ているのだから、イメージしやすかったのがベッドの下だったのだろうと思う。
ベッドで寝ているからベッドの話を入れるとして、文字数の都合上、ベッドに寝ていて空中に現れた輪郭のない気配云々よりも、ベッドの下の、と言った方が都合が良かったのかもしれない。
次の「心などなくて 何もかも壊してしまう激しさだけ」という歌詞については、チズ編が元だと僕は思う。
キリエ編までに、「何もかも壊してしまう激しさ」と表現できるような戦闘描写があるのはチズ編だけになる。
(4巻pp.30-33)
この場面に至るまでに、チズは色々あって、精神状態は限界だけれども戦わなければならなくて、畑飼の事や姉のことなどは横において、叫びながら敵のロボットを殴るのだから、「心などなくて 何もかも壊してしまう激しさだけ」という表現はチズのあの場面と合致していると僕は思っている。
加えて、チズ編自体も心を捨てて巻き添えを無視して、チズは復讐のためにレーザーで街を破壊するのだから、そう言ったところも材料として使われているのかなと思うけれども、「何もかも壊してしまう激しさだけ」と表現するような「激しさ」は、やはり、フィッグを叫びながら殴っている場面の方が近いだろうという推論はある。
次の「静かに消えていく季節も選べないというのなら」という歌詞については、キリエ編の描写が元なのではないかと思う。
『ぼくらの』のパイロットは全員、消えていく、すなわち死ぬ季節も選べないというところは等しくて、それだけだと全員が該当してしまう。
けれども、「静かに消えていく」という表現が合致するのはキリエになると思う。
(5巻pp.190-191)
ここではキリエが死ぬところまでの言及はないけれども、もし、この場面でキリエが人生の最後までを述懐するとしたならば、やはりその最後は静かなものだろうと僕は思う。
最後に「僕の代わりが居ないなら 普通に流れてたあの日常を この手で終わらせたくなる 何も悪いことじゃない」という歌詞についても、キリエ編が元だと思う。
キリエ編ではキリエが世界を自分の手で終わらせることについて、何も悪くないと言及している場面がある。
(6巻p.77)
これはキリエが殺してもらうためにジアースの指先に乗って、敵に自分の姿を見てもらおうとしたくだりの後の場面で、ここで100億人道連れにするのも悪くないという話がされている。
「僕の代わりが居ないなら」と、自分の事を僕と呼んでいるのだから、やはり男の子を念頭に置いているだろうという推論はあって、そうとするとキリエ編が一番イメージとして合致するけれども、チズに何故私なんだと思い悩む描写がある。
(3巻pp.195)
実際の所、キリエについては殺してパイロットを挿げ替える事が可能で、キリエもその旨を田中さんに伝えていて、キリエの代わりが居ないということはない。
一方で身籠っているチズについては、チズの子に対して、代わりが居るとか居ないとかそういう問題ではないし、誰も代わることなんて出来ないし、全てを終わらせたくなったのはどちらかというとチズの話になる。
だから、推測するに、念頭にあるのはキリエ編のあの会話で、けれども、漠然とした『ぼくらの』の全体のイメージのそれが用いられていて、チズの自暴自棄な振る舞いについてを「全てを終わらせたくなる」というニュアンスとして採用したのかなと思う。
(4巻p.24)
この辺りのチズはもう全ての事がどうでも良くなって、このまま負けて全てが終わっても良いと思ったから反撃をしないのであって、「全てを終わらせたくなる」という言葉単体だと、キリエの時よりもチズの時の方がイメージが近い。
「僕の代わりが居ないなら 普通に流れてたあの日常を この手で終わらせたくなる 何も悪いことじゃない」という数フレーズは全体的にキリエ編のイメージっぽくて、ただ「全てを終わらせたくなる」というのはキリエの心象描写と差異があって、キリエはどうせどちらかが死ななければならないのなら、という消極的な動機であの行動を選んでいる。
ただまぁ、結局のところ、歌詞を作る背景的なイメージとして『ぼくらの』という漫画があるだけで、あの歌詞は普通にキリエ編を読んでいて思いついたそれで、けれども、尺の都合や語呂、使うフレーズや前後の関係性込々で言葉を取捨選択するわけで、それに際して敗北を選んで全てを終わりにしたところで、それは「何も悪いことじゃない」という表現を用いるに際して、「この手で終わらせたくなる」という能動的な言葉の方がやりやすかったという話なのかなと個人的には思っている。
そんな感じの『アンインストール』の歌詞の解説。
脳内予定表にはあと、石川先生の『Vermillion』と『little bird』の解説も入れる予定だったけれど、今月の残り時間と相談して、今は書かないことにした。
ただ、その二つの曲は『アンインストール』と違って、二つの曲を合わせても一つの記事になる程には解説が出来ないだろうという推量があって、その解説この記事に追記で書きたいと考えている。
まぁ出来上がった文章の量と相談して、4000字を越えるようだったら新たに記事は作るとして、それ以下だったこの記事に来月中に追記することにします。
ちなみに、この『アンインストール』の解説は本当に昔から書こうと考えていて、アメブロに備忘録のために表題だけ付けて残しておいた「『アンインストール』の解説」の下書き記事があるから、いつくらいに思い付いたかもしっかり残っていて、それを見ると2019年の10月14日にその記事は作られていた。
何だこれは…たまげたなぁ。
その頃から脳内にあって、書く内容は思い出すたびにシミュレートしていたから、記事に起こすのはそこまで苦痛ではなかった…というか、歌詞を見れば以前の僕がどのシーンだと思ったかが秒で想起されたので、書く前の段階での準備とか一切なかった。
それくらい何度も何度も"この事"を考えていたわけで、この記事自体は3時間くらいで書いているけれども、思いついてから今この瞬間までに、脳内で色々考えた時間は数時間、十数時間にも及んでいるのではないかと思う。
4年もこの事について考えていたんだから、そりゃあねぇ。
そんな積み重ねが必要な作業を無償で僕にお願いしたり要求したりはするのは、やめようね!
そんな感じの『アンインストール』について。
…本来的には今月は違う漫画の解説を予定していて、ただその解説には準備が必要で、その準備が甚だしい苦痛だったので、今月は後回しにすることを選んでいる。
…。
どうして漫画の解説を書くのにプラトンの『ゴルギアス』を参照しなければならないんですかねぇ…。
そんな作業苦痛でないわけがないから多少はね…。
本来的にこの記事の内容だと漫画の解説にはならないから、漫画の解説という脳内カテゴリーにはなってなくて、けれども、本来的に予定にあった方の漫画の解説は辛くてできないという事情があって、漫画の解説ではないけれど、今月何もないよりはマシだろうという判断で今この記事を書いている。
そんな感じです。
では。