虎狼の人 | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は始皇帝=ディオドトス2世説について。

 

始皇帝というのは中国の最初の皇帝のことで、ディオドトス2世というのは、グレコ・バクトリア王国の二代目の王の事です。

 

僕は以前、漫画の解説をするに際して、アレクサンドロス大王の最後について書かれた日誌の著者の一人である、エリュトライのディオドトスについて色々調べたということがあった。

 

それに際して、ディオドトスと検索を入れたところ、何故かサジェストに「始皇帝」という言葉があって、なんじゃそりゃと思ってそれを検索したということがあった。

 

すると、どうやら話としては、アレクサンドロス大王の死後に、インドの北西の辺りにギリシア人の王国がいくつか誕生していて、それはグレコ・バクトリア王国と呼んでいて、そのギリシア人の王国を作ったディオドトスという人物が、中華に逃げて後に始皇帝になったという"学説"らしいということが分かった。

 

僕はそれを知って、これ言い出した人、『史記』とか読んだことないんだろうな…と普通に思って、今回は何故そのように思ったかについて色々書いていくことにする。

 

まず、秦の始皇帝は名前の通り、秦という国の王様になる。

 

まぁ発想としては、ローマの事を漢代には大秦国と呼ぶし、西洋的なものを秦と呼ぶという知識があって、ディオドトスという人物は1世と2世がいて、この二人は親子関係で、その2世が生きた時代と始皇帝の生きた時代が重なっているという事情から、その二人を関連付けたのだろうと僕は思う。

 

ただ、普通に考えたらトンデモ説でしかないし、こういうのは所謂、陰謀論の一つとして処理して良いのではないかと僕は思う。

 

僕はこのような陰謀論について思う所がある。

 

彼らの主張するところの学説は純粋に面白くはあるけれど、ただ面白いだけで、「何故そうと言えるのか」、「そうと論証できる学術的な証拠があるのか」という観点に絶望的に欠けているよなと思ってしまう。

 

実際、根拠と言えるようなことは、始皇帝とディオドトスが同時代人というだけであって、そもそもグレコ・バクトリア王国があったのは現在のアフガニスタンの辺りであって、秦王国と物凄く距離が離れている。

 

(Wikipedia:Greco-Bactrian Kingdomより)

 

秦の国は上の地図の更に東の方にあって、しかも秦とバクトリアの間には西域と呼ばれる地域があって、亀茲や楼蘭と言った諸国が存在している。


(Wikipedia:ホータン王国より)

 

これは先の地図より百年以上後の時代のものだから、国は入れ替わっていて、大体、安息と書かれたところの右下辺りがバクトリアの地域で、秦の国は小さくて見えないだろうけれど、大体中国の関中とか長安と書かれた辺りにあった国になる。

 

この地図を見ればどれ程離れているかが分かるし、その間に存在する全ての国を無視して秦の国に行くというのがどれ程意味不明な事かが分かると思う。

 

秦の始皇帝が実はギリシア人だったということがもし事実だとしたら面白いことだとは思うけれども、面白いとはいえ、その事が正しいとする論拠とかは僕には全く分からない。

 

そもそも、秦という国はぽっと出の国でも何でもなくて、中国に古くから存在する国になる。

 

『史記』の秦の国について書かれた「秦本紀」では、秦の国の初代である非子についての言及がある。

 

「(秦の王族の祖先である)蜚廉が李勝を生んでから五世の造父は、分かれて趙におり、趙衰はその子孫であった。惡來革は蜚廉の子で、早くに死んだが、その子を女防、女防の子を旁皋、旁皋の大几、大几の子を大駱、大駱の子を非子といった。いずれも造父のおかげで、みな趙城の趙姓を称した。非子は犬丘におり、馬や家畜を好み、良く飼育した。犬丘の者が、これを周の孝王に言うと、孝王は非子を召して、汧水と渭水の間で馬を飼育させた。馬が大いに繁殖したので、孝王大駱の嫡子としようとした。

(中略)

孝王は、「むかし伯翳は舜のために家畜を司り、家畜が多く繁殖した。だから領地を貰って嬴と賜うた。いま、その子孫がまたわしのために馬を殖やしてくれた。わしは土地を与えて附庸としたいと思う」と言い、非子を秦に住まわせ、また嬴氏の祭を継続させて号して秦嬴といった。(司馬遷 『世界文学大系 5A 史記』 小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.34)」

 

まぁなんつーか、秦の始皇帝の祖先が馬を良く繁殖させてそれを誉められて、彼の祖先も似たような業績で取り立てられたから、嫡男ではなかった彼は一族とは違う場所に封土して、その場所が秦で、後に秦は中華を統一したという流れになる。

 

ここに孝王という名前が出てくるけれど、この人物は当時の支配者である周の王様の名前で、彼は紀元前891年から紀元前886年の間、王であったらしい。

 

彼は実在していて、その事は出土文献から裏付けられている。


「わが皇亞祖懿仲においては、その胸懷を深く廣くし、その君たる孝王・夷王をよく輔弼し、周邦[の安寧]に成果を有した。(『盤』:(参考)」

 

以前、この文章については言及したけれども、これはという人物が作った青銅器に書かれた文章で、彼の祖先の事績が書かれていて、彼らがその時に仕えた周の王の名前が挙げられていて、ここに孝王の名前を見ることが出来る。

 

普通に考えて、孝王の実在は考古学的に認められるわけで、その孝王に土地を賜ったのが秦という国の始まりらしい。

 

ただ『史記』にそう書いてあるとはいえ、『史記』の書かれた時代から700年以上前の時代である以上、その記述がどれ程正確かは分からない。

 

けれども、同じように『史記』に言及のある燕という国の始まりについては、『史記』に書いてある通りに太保という役職の人物が王によって燕の地を任されたと書かれた青銅器が出土していて(『克盉』)、その出来事は秦の初代の話の更に100年以上前の出来事なので、秦の話に関しても実際にあったことであるという可能性はある。

 

とにかく、それくらい成立の古い国であって、中国最古の歴史書である『春秋』の注釈書である『春秋左氏伝』にも秦についての言及はある。

 

「 (桓公の四年の)秋、秦の軍が芮(国名)を侵したが、秦が敗れた。相手を小国とみて侮ったからである。(左丘明 『世界古典文学全集 13 春秋左氏伝』 「桓公四年」 貝塚茂雄訳  筑摩書房 1970年 p.23)」

 

魯の桓公四年は紀元前708年だから、この時代には既に秦という国は存在していたということになる。

 

ここで戦った芮も秦の国の直ぐ近く…というか、後に秦の国土になる地域だから、普通にここで言う秦は始皇帝の国である秦と同一の国という話で良いと思う。

 

だから、少なくとも紀元前708年には存在していた成立の古い国が秦の国であって、それくらい前から存在している国になる。

 

そのくらい歴史の古い国なのであって、その国が突然ギリシア人に取って代わられたとしたならば、それが歴史書に記載されない理由が良く分からないし、そのような話は『史記』ではされていない。

 

他には秦の国主が石に刻んだ文章も残っていて、石鼓文と呼ばれるそれが確認されている。(参考)

 

石鼓文が書かれた時期については諸説あるとはいえ、紀元前374年頃に書かれたという話らしい。

 

加えて、始皇帝自身も漢字が読める人物であって、その事は『史記』の記述から分かる。

 

「 この(韓非の)書物を携えて秦に来た者があった。秦王は、その孤憤・五蠹の諸篇を見て言うよう、「ああ、わしは、この著者に会って交遊することができれば、死んでも本望である」と。李斯が、「これは韓非の著わした書物であります」と言った。秦王は、韓非に会う手段として、急に韓国を攻めた。韓王は最初、韓非を登用しなかったが、危急に及んで、非を使者として秦につかわした。秦王は非に会って気に入ったが、まだ信用して登用するにはいたらなかった。(同上『史記』p.12 冒頭()は引用者補足)」

 

始皇帝は韓非の本を読んでいて、この記述から彼は漢字を読む能力がある人物だということが分かる。

 

もし彼がギリシア系の人物だったならば、このように漢字を読む能力を持っているのは少し妙な話になる。

 

そして、始皇帝は天下統一の後に中国を巡回して、各地に石碑を残していて、司馬遷はその石碑の文章を『史記』に書き写している。

 

その内容は如何にも中華的で、ギリシア的な要素の一切は存在していないし、そこに記載される功臣たちの名も、中華的な名前になっている。

 

もし、始皇帝がギリシア系だった場合、部下にギリシア系の人物がいない道理はないし、一人だけのこのこやって来て、乗っ取れるほどに王位簒奪は楽な仕事ではない。

 

「 これ二十八年、さきに初めて皇帝を称す。法度を端平にして、万物の紀綱とし、人事を明らかにして、父子を合同し、聖智仁義にして、道理を顕白す。東、東土を撫して卒士を省み、事すでに大いにおわって、すなわち海に臨む。皇帝の功、本事を勤労し、農をたっとび末を除き、黔首をこれ富ます。

(中略)

緯れ秦王、天下を兼有し、名を立てて皇帝となす。すなわち東土を撫し、瑯邪にいたる。列候の武城侯王離、列侯の通武侯王賁、倫侯の建成侯趙亥、倫侯の昌武侯、倫侯の武信侯馮毋擇、丞相隗状、丞相王綰、卿李斯、卿王戊、五大夫趙嬰、五大夫楊樛従う。共に海上に議していわく、古の帝は地千里に過ぎず、諸侯各々その封城を守り、あるいは朝しあるいは然らず。

(中略)

今皇帝海内を并一し、もって郡県をなして、天下和平す。(後略)(同上『史記』p.51 下線部引用者)

 

下線部は区切りが分かりづらいから僕がつけたもので、始皇帝が天下を統一した時に彼に従った部下の名前がこれになる。

 

明らかに中国人であって、ギリシア系と判断できるような名前はないし、その言及内容は中華的で、『商子』の言及にある所の秦の風土と重なる部分もある。

 

『商子』は始皇帝の時代の前に秦の国で書かれたテキストで、これは重農主義的な書物で、労役と重農の重要性を説く内容になっていて、始皇帝の言及の中に、「本事を勤労し、農をたっとび末を除き、黔首をこれ富ます。(同上)」とあって、古くから続く秦の伝統に基づいた考え方を始皇帝は持っているということが理解できる。

 

ちなみに、黔首は冠を被らない庶民の事で、まぁ人民を増やしたという話です。

 

始皇帝は後に焚書坑儒をしたわけだけれども、このことは始皇帝の独断という話ではなくて、始皇帝の時代より前に書かれた『商子』に言及のある内容で、始皇帝が儒者が嫌いだったというよりも、始皇帝が本を焼きたかったというよりも、秦は伝統的に儒者嫌いで、その伝統に基づいて行われた方策であったらしい。

 

『商子』を読んだときの印象を未だに僕は覚えていて、『商子』の言及は「君、儒家に親でも殺されたの?」ってレベルでの儒家嫌いで、事あるごとに儒家を貶める話がされていて、何があったらここまで嫌いになるんだよと思うようなことが書かれている。

 

次に引用する文章の冒頭の公孫鞅というのは『商子』の著者、商鞅の事で、彼は衛の国の公族に生まれたから、その事を意味する公孫という名乗りがあって、後に商という土地を貰ったから商鞅という名前なのであって、この頃はまだ商鞅ではないから、公孫鞅と呼ばれています。

 

「 公孫鞅がいった。「古代の王朝は民を教化するのに、みな異なったやりかたをしております。どんな昔の手本にまねをしましょうぞ。古代の帝王は、前代と同じことを繰りかえしてするということはしませんでした。いつの世の礼制に循(した)がいましょうぞ。伏羲や神農の時代には、人民を教化するだけで、刑罰は行なわれなかった。黄帝舜の時代には、刑罰が行なわれたが、私情の怒りで、それを行なうことはなかった。周の文王、武王の時代になりますと、それぞれ時勢に応じて法律を立て、事情に本づいて礼制を定めました。礼制法度はその時代に合うように定められ、制度法令もおのおの時代に適するように作られたのです。武具や器械もその用途に便利なように考えられました。それゆえ、わたくしの意見としましては、政治のやりかたはこれ一つというものはなく、国家に都合のよいことなら、必ずしも過去のものに模範をとらずともよいことです。殷の湯王や周の武王が王者となられた時には、過去の王朝の制度を参考することなくして、国が興隆し、殷や夏の王朝が滅びた時には、制度は昔のままでありながら滅亡したのです。そうならば、古法に反するものが必ずしもいけないということにはなりませんし、旧制にしたがうものが、必ずしも大へんよいことだともいえないわけです。わが君、疑ってあれかこれかと迷われることはございませんよ。」(商鞅『中国古典新書 商子』 清水潔訳 明徳出版社 1970年 p.37 )」

 

 

儒家では伝統的に古の王たちの行動を規範としていて、その王たちの振る舞いを倣うということを推奨するような発想が多い。

 

後の時代に新の王奔は、かつて古代の聖王の時代に存在したという井田制を実行しようとして、けれども現実と見合っていない制度であったために破綻して、色々あって新帝国は王奔の時代に滅んでいる。

 

その井田制は『孟子』に言及がある話で、『孟子』は儒教の本だから、まぁそういう風に古の風習を是とする発想がある。

 

先の『商子』の記述はそれを真っ向から否定する話であって、そういう風に儒家と相反するような発想が『商子』には書かれていて、そういう話は先の引用箇所だけではないし、著者は儒家を嫌っていたのだろうと思わせるような記述が多い。

 

『史記』には儒家を460人埋めたと書かれているけれども、儒家が嫌いなのは秦の国の伝統で、別に始皇帝がそう思ったからそうしたというよりも、国是に従ってそのようなことを行ったと判断した方が良いと思う。

 

そして、焚書坑儒の焚書についても『商子』にはそれを是とするような言及がある。

 

「 国家有事の時には、学問を身につけた人民は、法律に反対し、商業に従事する人民は、もうけるためにうまく立ち回り、工芸にたずさわる人民は農事と戦争との役に立たない。ゆえにその国は破れやすいのである。いったい、農民が少数で、徒食するものが多数であるから、その国はまずしくなるのである。(中略) 詩経、書経が一郷ごとに一束ずつあり、一家ごとにそれを読むものが一人ずつあろうとも、まったく政治にとっては無益なばかりではなく、人民を農耕と戦争とへひき戻す方法ではありえないのである。(よって、人民に学問は必要ではない。)(同上『商子』pp.62-63 最後の()は引用者補足)」

 

このように『商子』では本なんか必要ないという話がされている。

 

この話も結局、儒家の発想では詩経や書経を学ぶということは重要であるところではあるけれども、そんなものは国を富ませる農耕と、国を強くする戦争には全く役に立たないという議論であって、儒家の主張を否定する文脈で本などは必要ないという話をしている。

 

必要ないなら焼くのは当然であって、秦としては民に農業以外の一切をしてもらいたくないから、そのような本を焼いたという話であって、始皇帝の時代に焚書坑儒は行われた以上、始皇帝は秦の国の伝統を強く守っている人物だということが分かる。

 

焚書坑儒は始皇帝が暴君だから行われたのではなくて、伝統的に秦の国では儒教が嫌われて、市井に本は必要ないという発想が存在していたから、その文化的伝統に則って、あのようなことが行われたに過ぎないという理解で良いと思う。

 

要するに、連綿と秦国は古代から続いていて、それは途切れていないし、それは史書の記述や出土した文献、始皇帝の事績や秦の国の伝統などによって裏付けられているということは、この記事に書いた内容だけで十分に伝わったと思う。

 

一方で、彼がギリシア人だったという話の根拠とかは良く分からない。

 

始皇帝は鼻が高かったと『史記』にはあるけれど、鼻が高ければ中国人じゃないという話にはなったりしない。

 

「秦王は人となり、鼻が高く目が長く、摯鳥(くまたか)のように胸が突き出て、豺のような声をし、残忍で虎狼のような心をもっている。困窮したときは人に卑下するが、得意な時には平気で人を喰ったようなことをする。わたしは一介の布衣の身だが、秦王は常に自らわたしにへりくだっている。もしも秦王に天下の志を得さしたら、天下の者はみな秦王の虜となろう。いっしょに長く付き合える人物ではない。(同上『史記』p.48)」

 

『史記』によれば、始皇帝は秦の王子である子楚という人物の子供であって、子楚は元々王位継承権もなく、趙の国に人質に出されていたところを、呂不韋という人物が彼を国王に仕立て上げることで甘い汁を吸おうと画策して、果たしてその目論見は成功して王になったという人物で、秦の王族出身なのはまず間違いない。

 

そのような王族を他国に送ることによる人質交換は当時の中華の風習であって、基本的に王族が送られるものだし、それは秦や趙以外の国でも行われていることになる。

 

そして、そのように人質に出されたり国に戻ったりと国交は行われていたというのなら、秦の国の王室が異国人に地位を簒奪された場合、それが他国に漏れない訳もないし、それが記録に残らない訳もない。

 

当時の風習的に国主が死んだ場合だと、自国に居る国主の子息が継ぐのが普通だし、そうではない場合、他国に出ている子息が戻ることも多くて、『史記』や『春秋左氏伝』には、自国に縁のある人物をその国の国主に据えるために、軍を出して後継者を送り込んだという事例がいくつも記述されている。

 

もし、秦の国の王位がギリシア人に簒奪された場合、数多くいる秦の王族が黙っているということもないし、他国に人質で出されている王族たちも、人質先の軍隊を連れて帰ってくるのが当時の中国の風習になる。

 

加えて、もし遠い外国出身の人物が一代で国の乗っ取りを行った場合、王の政治的志向は出身国に傾くはずで、もしギリシア人がそれを行ったならば、施政もギリシア的な雰囲気を残すようなそれになる筈になる。

 

けれども、始皇帝は普通に秦の国の伝統に基づいて政治をしていて、そもそもギリシア人が国を乗っ取ったという証拠とかはないし、数百年続く国が簒奪されたというのなら、その話が史書に記されない道理もない。

 

実際、その辺りは隠し通せる話でもないらしくて、斉という国は途中で簒奪されていて、その話は普通に『史記』にあって、それまでの太公望の血筋の人々が国主をやっていた時代と、後に田和という人物が国を乗っ取って、彼が乗っ取ってからの時代とでは、『史記』では違う国の歴史として、違う世家にそれぞれの歴史が記述されている。

 

その乗っ取りを行った田氏は、紀元前672年に斉に亡命して来て、斉を乗っ取ったのは前386年だから、300年近くかけてようやく乗っ取りを成功させている。

 

このような事例は古代中国では斉以外にないし、その唯一の例も300年くらいの時間が必要で、田氏は元々陳という国の公族で、元々やんごとなき血筋で、それでも乗っ取りには300年近くかかっているのだから、中華では知られていない国からやってきた男が、秦という国を乗っ取るというときに、どれ程の時間が掛かるのかとかは僕には良く分からない。

 

そのように、始皇帝はディオドロス2世ではないだろうという話はいくらでも出来るけれども、ディオドロス2世であるということの論拠とかは良く分からなくて、結局、陰謀論というのはこういうものだよなと思う所がある。

 

そうであったら面白い点の出来事があって、けれどもそれを事実とするための証拠の繋ぎ合わせをしようとしないで、繋ぎ合わせをしたとしても確実な資料には依らないで、如何にも怪しい記述を論拠とする。

 

ただ、今回の事は偶然、僕がそれは違うだろうと言及できる知識を持っていたから否定の言葉を思いついただけであって、一つ間違えれば僕もきっと、そのような"正確ではない"知識によって惑わされて、迷妄な発想に捉われて、道理に適わない判断を下してしまうような話であって、結局の所は紙一重なのだろうとは思っている。

 

というよりも、自分が物事を正しく認識できているだなんて、陰謀論者の方々が一番強く思っていることだろうので、そのような自負には一切の価値がないし、個人的にはむしろ、そのように疑ってかかる方がまだマシなクソなのだろうとは思っている。

 

そんな感じの日記。

 

まぁ色々ね…。

 

では。