「ヴァンデミエールの黒翼」の解説 | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

書いていくことにする。

 

まず、ここで言う「ヴァンデミエールの黒翼」というのが何かから説明していくと、『ヴァンデミエールの翼』という漫画を描いた鬼頭莫宏先生は去年あたりにTwitterを始めたのだけれど、そのアカウントで『ヴァンデミエールの翼』のボツネームを公開した。

 

 

「ヴァンデミエールの黒翼」というのはそのボツネームのことで、今回はそれを無断転載して、僕から言えることを少し言及するというだけの話ですね。

 

まぁこの漫画自体は今引用したツイートに言及されている通りで、ヴァンデのボツネームで、以前、公開していたものをまた公開したというだけの話らしい。

 

そのホームページはアーカイブスに残っているのだけれど、この「ヴァンデミエールの黒翼」のボツネームが掲載されたであろうページは見当たらなくて、アーカイブスの最古が2002年時点のそれだから、それより前に公開されていたのだろうと僕は思う。

 

…僕は鬼頭先生の漫画に関して"にわか"だから、そういう古い情報は良く分からないんだよなぁ。

 

まぁとにかく、今からそのボツネームを引用するけれど、今引用した鬼頭先生のツイートをクリックすれば、今から引用する内容がそのまま上げられているから、以下で引用する必要とかは別に全くない。

 

けれども、僕の側の問題で、今までやってきたやり方の方が解説を書くに際して僕がやりやすいという理由から、一応、全ページを引用することにする。

 

鬼頭先生のツイートを読むのと、ここで転載したのを読むのだとどちらが楽なのかとか、僕には良く分からない。

 

とにかく、持ってくることにする。

 

(https://twitter.com/mohiro_kitohより)

 

さて。

 

無断転載が終わったので色々書いていくことにする。

 

まず、この小編のタイトルは「ヴァンデミエールの黒翼」なのだけれど、この表題はヴァンデの本編でも採用されていて、具体的には6話でその表題が使われている。

 

(鬼頭莫宏『ヴァンデミエールの翼』2巻p.45 以下は簡略な表記とする)

 

まぁなんというか、元々の「ヴァンデミエールの黒翼」というネームはボツになってしまったけれども、その表題の方はまだ使いたかったというか、打ち捨てるまでもないという感じで再利用されたという話で良いと思う。

 

僕も色々あって使わなかった日記のタイトルを他の時にそのまま流用するということを過去にやっていて、まぁ人間はそういうことをするのであって、この「ヴァンデミエールの黒翼」に関しても、そういう話ということで良いと思う。

 

そして、この話は鬼頭先生曰く盛り上がりの部分がなくてボツになったと言及している。

 

 

このことに関しては、鬼頭先生を担当した編集者の方が、そのような盛り上がりを大切にするタイプの人で、その担当さんの"お眼鏡に"かなわなかったという話で良いと思う。

 

物語というのは必ずしも盛り上がりが必要ということはなくて、物語のタイプによってはヤマもオチもないということもあり得て、特に『ヴァンデミエールの翼』はオムニバス形式の抒情的な話の連続なのであって、その中の一つに盛り上がりがないものがあっても良かったのではないかと思う。

 

ただ、『ヴァンデミエールの翼』は盛り上がりを想定した作りになっていて、全八話の物語の中で、作中に山場がない作品は存在していない。

 

1話だと、怖いお父さんから娘さんを奪って逃げだそうとして、それに際して捕まるシーンが山場だし、2話だとバードストライクで空から落ちる場面が盛り上がりとして存在している。

 

(1巻p.25)

(1巻p.68)

 

3話だと妹を連れていかれたと思ってヴァンデミエールを少年が殺そうとする場面が、4話だと呪縛を打ち破ろうとするシーンがある。

 

(1巻pp.105-106)

(1巻pp.156-157)

 

1巻ではこのような感じに盛り上がりが用意されているし、2巻でもその辺りは変わらない。

 

5話ではブリュメールを石で殴りつけてヴァンデミエールが入れ替わるシーンが盛り上がりだろうし、6話では飛行船の爆発と共に空へと飛び出すシーンが盛り上がりだろうと僕は思う。

 

7話は…盛り上がりという表現だとあれだけれども、木でできたヴァンデミエールの命が肉で出来た命に繋がれていく場面は、何か多く語ろうという振る舞いが無粋だと思う。

 

8話は、ヴァンデミエールが滑走して、創造主なき今の空の下を人間の力で作ったバイクで飛び立っていくという、『ヴァンデミエール』の翼という物語自体の決算のような場面だから、やはり、基本的に『ヴァンデミエールの翼』という物語には山場というものが想定されているという理解で良いと思う。

 

まぁ、当時の担当さんがそういうのを好むタイプだったのだろうと思う。

 

担当というのは作者の性格との兼ね合いとか色々な当たり外れがあって、ヴァンデに関しては抒情的な物語がありつつ、盛り上がりもあったという方向性に修正が成されているのだから、この作品においては色々上手く行ったのだろうと思う。

 

あまりに相性が悪いと、烈海王の異世界転生みたいなどうしようもないことが起きたりするので、まぁヴァンデに関しては上手く行ったというか、盛り上がりを用意するという方針は上手く機能したのかなと思う。

 

実際、作品によってはヤマもなければオチも何もない、ただ淡々とした内容のそれもあって、『雨と君』という漫画などは、全体の九割くらいに関して、もはや盛り上がりなんて概念が作中に存在していないのではないかと思う。

 

場合によっては盛り上がりなんて必要ないということもあり得て、その辺りはまぁ、ねぇ?

 

…いや、『雨と君と』は別にオチとかはあるし、好きで毎週ヤングマガジンで『センゴク』と一緒に読んでるんだけどさぁ。

 

 

どうでも良いのだけれど、『センゴク』…物語最高の山場であるはずの豊臣秀吉の小田原征伐が終わった今が物語の全編の中で一番面白いのはどういうことなんですかね…?

 

まぁそんな話はさておいて、「ヴァンデミエールの黒翼」の全体的な話が終わったので、作中の細かい描写について色々言及していくことにする。

 

まず、冒頭で魚を釣っているのは、鬼頭先生が釣りが好きだから、そういう要素が物語の材料に選択されたという話で良いと思う。

 

なんというか、後に『バスを釣るなら』って漫画描いてますし。(参考)

 

そういう風に釣りをしていると、ヴァンデミエールがそれを見て、釣られる愚かな魚なんて救う必要はないという話をする。

 

(同上 以下ではここは省略する)

 

このような発想は『なるたる』の時に須藤が言っていることと重なるところがある。


(『なるたる』7巻p.30)

 

価値がない愚かな存在は生きていても仕方がないというか、そんな連中に分け与える資源など存在していないと言っている。

 

おそらくなのだけれど、このような発想に関しては、鬼頭先生自身が頭の何処かでそのように考えていたから出てくる表現で、どっかで価値のない存在は死んだ方が良いと思っていたのだろうと僕は思う。

 

ただ、推測するにその価値のない存在というのは、自分の事も含まれていて、自分を含めた愚かな存在は生きる価値がないとか、そういった話なのではないかと思う。

 

もし、自分が愚かさ故に死ななければならないというのなら、それを甘んじて受け入れるべきだという話で、愚かな彼らより優れた自分が生き残るべきだとかいうそういう発想ではないだろうと思う。

 

須藤とかも最終的に自分のことが嫌いだと言って餓死している。

 

今回はあんまり関係ないから多くは言及しないけれども、鬼頭先生の『ぼくらの』までの漫画でキャラクターが酷い目にあうのは、あれはおそらく、一種のセルフネグレクトだと思う。

 

他罰的ではなくて、酷く自罰的で、そのような表現は精神的な不調が色々な端緒なのではと個人的に推測している。

 

まぁそんなこと書いたところで、メンタルに一切傷がない人がこの文章を読んでも意味分かんないだろうけれど。

 

話を黒翼に戻すと、ヴァンデは(サーカスから)逃げ出してきたと言っている。

 

 

この辺りはまぁ、ボツになって代わりに描かれた「フリュクティドールの胞衣」と全く同じだからそれはそれでいいんだけれど、そもそも「フリュクティドールの胞衣」でヴァンデミエールがなぜ逃げてきたかの話はないから、なんで逃げてきたのかとかは良く分からない。

 

理由は設定上存在していそうだけれども、それを示唆する言及が本編にないので、その辺りは良く分からない。

 

採用版の「フリュクティドールの胞衣」の場合、ヴァンデの逃走より"今"から逃げているミルトンにフォーカスが当てられていて、ヴァンデミエールが何故逃げ出したのかの話はされていない。

 

逃げた理由の説明がないのは黒翼でも同じだけれども、黒翼の場合は最後のページでその逃走の話がある。

 

 

結局、僕の理解するところの『ヴァンデミエールの翼』という物語は、中世的な教会の権力が強い神々の世界から人間が脱却して、その権力が強い神、天空神から自由になるという一連の物語だから、その天空神から逃げ出したということが重要で、何故逃げ出す必要があるのかとかはそれほど重要でもないのかもしれない。

 

これを書いている時点で、8話で描くように、天空神から自由となって空を人間が自由に飛び回る話を想定していたかは定かではないけれど、蒙昧な宗教の神、古めかしくて道理に適っていない父権の創造主から脱却しているという状況が好ましいというニュアンスはあるのではないかと思う。

 

黒翼は4話のボツネームだけれども、3話のラストでも、古い価値観である天使がどうだとかそういう発想が否定されるような終わり方になっている。

 

(1巻p.120)

 

このような発想は、鬼頭先生が当時いたく気に入っていた、『神話・伝承辞典』の記述に由来するものだろうという話は、『なるたる』の解説を書いたあのサイトとかで散々に示してきたし、この文章をその説明を読んでいない人が読むということ自体を想定していない。

 

別に…これから検索で「ヴァンデミエールの黒翼」と検索する人も居ないだろうし、ググった結果として今書いているこの文章が読まれることはないだろうと考えていて、大体はこのサイトに違う目的で来た人が読むだろうという想定のもとに色々書いている。

 

まぁ万が一読んでない人が居たら「ヴァンデミエールの翼 解説」でググれば読めるので、はい。

 

…以前ある人があの解説がなければヴァンデの内容が一切分からなかったと言っていて、けれども最近、違う人がヴァンデに関しては解説を読んでも分からなかったと言っていて、あれは理解されない内容である可能性がある。

 

分かりやすくと心がけて書いたのだけれど、万人に分かってもらうなんて、僕の能力を越えているから仕方がない。

 

ともかく、ヴァンデで見るようなキリスト教を模したであろう宗教的な価値観と、それに対する蔑視、そしてその脱却と、地母神への回帰という話は、『神話・伝承辞典』という分厚い辞典に言及されていることで、僕は鬼頭先生はこの本を読んでいると考えているし、そうと考えると色々なことがすっきりと読み取れたりする。

 

『神話・伝承辞典』ではキリスト教の神のことを男神にして天空神として、更に悪しき存在として語られていて、一方で男神が支配するこの穢れた世界が出来る前に世界を包んでいた地母神は素晴らしいものであったという話がされている。

 

『神話・伝承辞典』はキリスト教的な発想を悪として、それ以前に存在していたと"される"、女神たちの世界の復権が目的の本で、鬼頭先生の漫画に登場するモチーフの元ネタと思しき話がかなり多く言及されている。

 

黒翼でも"そのような"キリスト教的な神の話はされている。

 

 

これはキリスト教の話で、家畜などを殺していいのは神が人間のためにそれらの動物を創造なされたからという教義が説かれる場合があって、黒翼のこの会話では、その発想が否定されるような形で触れられている。

 

日本人になじみのないこの発想が鬼頭先生には傲慢にも思えたのかもしれない。

 

人間は神のまがい物云々については、キリスト教の教えだと、人間は神が自分の姿に似せて作ったという話があって、そんな劣化コピーの分際で何を言っているんだという話だと思う。

 

この辺りの話は面倒なんだけれど、元々、ギリシア哲学のプラトンというおっさんの学説の中に、この世界は神々の世界の劣化コピーだという話があって、プラトンの『饗宴』という本の中でその話が語られている。

 

 

 

キリスト教はそのギリシア哲学の発想を取り入れていて、それが故に神の似像だとかそういうものとして、人間を想定する場合がある。

 

そういう風にキリスト教には古代ギリシア由来の教説がそれなりに存在している。

 

まぁ、鬼頭先生はその辺りについて詳しくないだろうから、ヴァンデという物語にそういった細かい要素が存在しているわけでもないのだけれど。

 

話は前後するけれど、ルアーを作るためにヴァンデから羽を取るシーンがある。

 

その前振りとして、ヴァンデの羽の話があって、座長のワタリガラスが死んだという話がされている。

 

 

まぁこのことは「ヴァンデミエールの白翼」で、ウィルの乗った飛行機は、座長のカラスがバードストライクしたことによって墜落したのであって、その羽を使っているということだと思う。

 

次いで、その羽をむしってルアーを作るくだりがある。

 

 

ここでヴァンデが「ん」と言っているけれど、これはまぁ、衣装の付属品ではなくて、ヴァンデの体の一部だから感覚が繋がっていて、人間が髪の毛を抜くときのような痛みをヴァンデは感じているという話で良い…けど、どちらかと言うと、鬼頭先生がエロい声出させたかったという理解の方が近いと思う。

 

顔赤らめてるし。

 

僕は絵を描けないから感覚的なことは良く分からないけれど、漫画家はエロい顔を描きたいと思うような場合があるらしくて、鬼頭先生の作品でもわざわざそういう顔や声を出させているシーンがあったりする。

 

具体的には『なるたる』の4巻でアキラが銃を咥えるシーンとか。

 

だから、このヴァンデの顔にしてもそういう文脈と処理して良いと思う。

 

次いで、神と人間の話がある。

 

 

人間が神に隷属することを望んでいるという話は、近代哲学で問題となってる場面があって、おそらく、そういう情報が巡り巡ってこのヴァンデのセリフを生んだという話だと思う。

 

鬼頭先生がどれ程に哲学に詳しいのかは良く分からないけれど、作中でがっつり哲学を学んだ人間にしか描けない何かがあったりはしないので、がっつりはやっていないだろうと思う。

 

キルケゴールという哲学者あたりだと、神に隷属することを望んでいて、その話は『死に至る病』あたりに言及されていると思う。

 

そうと言えども、哲学の授業や卒論に必要な範囲の情報を集めた時に知っただけで、読んでないから僕はよう知らんけど。(ググってその話について書かれた論文をチラ見しつつ)

 

結局、鬼頭先生は国立大学出のインテリだから、そういう小難しい話を知る機会もあって、なんやかんやでそういった要素が作品の中で確認できるという話だと思う。

 

続く話で、自身が創造主だのなんだのという話もある。

 

 

こういった話は哲学者のニーチェの著作の中に似たような話があって、ルサンチマンとか超人とかの話に近いような気もしないでもないけれど、僕はニーチェに詳しくないし、哲学なんて劣った学問を勉強したら脳が退化するので、その辺りは説明が出来ない。

 

まぁ、なんか近代ヨーロッパにそういう話があって、そういうのを元に描いてるんじゃない?(適当)

 

そうと言えども原典を直接読んだり、原典訳の著作と向き合ったというよりは、概説的な説明を元に描いているだろうという印象はある。

 

一方で鬼頭先生はインタビューの中で、岩波文庫で上中下巻あるパスカルの『パンセ』の話をしたりしているので、もしかしたら僕が想定している以上に哲学に造詣はあったりするのかもしれない。

 

 

そういう風に哲学チックな何かに言及しながら、魚を釣っていたら大物が釣れて、その時に「白いのは眉ではなくて面なのでは」という良く分からないセリフがある。

 


これは、秀でた人物や事柄の形容詞である"白眉"という言葉についてで、少し前のページでその話をしていて、自分の釣りの技能を言って、白眉だと言っているからその話ということで良いと思う。

 

 

凄腕、つまり白眉であるネッドの釣りの技能によって大物を釣り上げたけれども、それを言うネッドの顔の方は蒼白だから、白いのは眉じゃなくて顔の方だという話で、そのビビった白い顔の方が気になるという話で、それに対して、「未熟者っていわれてるのかな」と返したというやり取りだと思う。

 

なんというか、白眉と言ったやり取りとその回収との距離が遠すぎるのではないかと思うし、フランスっぽい世界観で、『三国志』由来の故事成語である"白眉"って言葉が存在するのは良く分かんないけど。(参考:白眉)

 

魚が釣り終わったなら場面は教会に移って、ネッドがヴァンデを口説こうとする。

 

それに際して、神様の教えがどうとか言っているけれど、おそらく、カトリック的な世界観なのだと思う。

 

 

西欧のキリスト教は大きく分けて二つの流派があって、それはプロテスタントとカトリックで、カトリックの方が古くて、プロテスタントの方がカトリックの改革派になる。

 

その古い方のカトリックの教えだと神父は性行為をしてはいけなくて、おそらくはその話をしている。

 

カトリックだと神の教えで神父は性行為をしてはいけないというのに、ネッドはヴァンデにワンチャン賭けてて、それに対してヴァンデが神父目指してんじゃないの?と言ったというやり取りという理解で良いと思う。

 

そういう風にカトリックでは性行為は禁止されていて、ヴァンデはその戒律を踏襲しているのだと思う。

 

一方でプロテスタントの教父である牧師は妻帯が可能で、その辺りは宗派の違いになってくる。

 

とはいえ、「ブリュメールの悪戯」に出てくる教父には娘が居たりするので、良く分からない…というか、そこの辺りを厳密に色々想定してないんだと思う。

 

実際、神の教えで性行為を禁じる話があるこのネームはボツになっているわけで、ヴァンデの物語を通じて矛盾が生じているわけでもない。

 

この話を書いていた時はカトリック的な世界観を想定していて「ブリュメールの悪戯」の時点ではプロテスタント的に変えたとか、そういうのをあんまり考えていなかったかのどちらかだろうとは思う。

 

話を戻すと、その後は結局、ヴァンデは木で出来た体だから、ネッドの思惑は達成できなくて、木の体を晒して、ヴァンデは神の似姿である人間と、それを模した自分についての話をする。

 

 

ここでヴァンデが私が座長に依存していたらあなたは魚みたいになっていたという話は、ヴァンデをかどわかそうとしたことに関してで、同じようにヴァンデミエールをかどわかそうとした1話の主人公であるレイと、2話のウィルは座長に去勢されていて、けれどもこのヴァンデミエールは座長に依存していなかったから、あの"罰"を受けずに済んだという話だと思う。

 

座長に依存した状態だったら、吊るされた魚のように無残な姿をさらすことになっていたという理解で良いと思う。

 

…いや、魚の絵だけ見せられて「今頃あなたはあのマスのよう」とか言われても分かんねぇよこんなの。

 

ともかく、そういう風に自身を明かしたのちに、ヴァンデは何処かへと行ってしまう。

 

 

1話や2話の時点の座長、すなわち創造主は我が手から逃れる自立胴人形を絶対に許さなかったけれど、このヴァンデミエールは見逃されていて、もしかしたらこのヴァンデミエールが創造主を創造主と認めていなかったから、そういう風に見逃されているという話なのかもしれない。

 

神が神足り得るのは信仰があって初めてなせることで、信仰を失ったら神は神でなくなるので、絶対者と思われなくなった時点で、それはもう絶対者ではないという話なのだろうか。

 

結局、神の否定はヴァンデでは重要な要素で、度々その話はされている。

 

(2巻pp.121-122)

 

あのヴァンデミエールが自由になれたのは創造主を否定したことに由来していて、且つ、このように神の否定が人間においても是であるような描かれ方がされているところを考えると、人間と神という関係性と、座長と自立胴人形という関係性が、並行されてパラレルとして描かれていると理解して良いのではないかと思う。

 

以前僕が言及したように、神の居ない世界で人間が、創造主の居ない世界で自立胴人形が、それぞれ自由になって飛び立っていくという物語だと処理すれば、なんとなしに繋がりが見えたり見えなかったりするのかなと思う。

 

自立胴人形は創造主を否定したことによって自由になって、人間も神を否定することでこれから自由になるという暗示なのではないかと思う。

 

まぁ実際のところは、ヴァンデという物語が全体的に抒情的過ぎて、言語での説明が非常に難儀するような作品で、人と自立人形が自由になったという説明が果たしてどれ程正しいのかは分からない。

 

この自由という発想も近代思想では割かし重要で、旧世代の教会の窮屈さから解放されて人々は自由になったという発想はあって、けれども、その自由が逆に重みであるという発想もあったりする。

 

哲学者のサルトルは『実存主義とは何か』の中で、「人間は自由の刑に処せられている」と言及していて、近代思想では人間は自由であるという発想があるということは確かだと思う。

 

…僕はサルトルの著書の極一部くらいしか読んでないから、思想史上の流れとかそういったことは分からないんだよなぁ。

 

ただ、ヴァンデに関してもそのような現代と古い時代の過渡期の話で、明らかにヨーロッパの時代の進歩のことを念頭に置いている作品だから、その辺りの情報は作品の構築に用いられているのかなとおぼろげに思う。

 

そんな感じのヴァンデのボツネームの解説。

 

鬼頭先生があのネームをアップしたその日には解説記事を書くことを決めたのだけれど、今月中に書けばまぁいいやと思って放置してきた。

 

どうせ…こういう記事はあまり読まれないというか、僕の自己顕示欲が弱すぎて、読んでもらおうという努力の一切をしないので、大した数の人間が読むわけでもないし、そもそもそんなに読まれたいとも思っていない。

 

多くの人に読まれたいなら、このサイトのURLを滅茶苦茶アクセス数のあったあの頃のあのサイトに貼れば良かっただけの話だし、何だったら違うところでわざわざ始めないで、最初からあのサイトに書けばよかっただけで、なのにそうしていないのはそういう話になる。

 

まぁ僕が書いている色々な解説記事を読んでいる人は、その漫画が好きなだけで、僕が書いている何かが望まれている場合なんて殆どあれなんだから、僕にはあまり関係ないというかなんというか。

 

時々…いや、それは作者に直接ファンレターとして送ってよ…という内容のコメントが来るということがある。

 

好きなのはその作品で、その作品の話を誰かにしたいだけなんだろうな、って。

 

まぁいいや。

 

では。