胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

この記事は内部処理的に文字数オーバーで書き切れなくなった一つ前の記事を分割したものなので、その記事(参考)の続きです。
 
まぁとにかく、続きをやって行くことにする。
 
先に言及したNHKの本には、NHKの取材班が実際にミャンマーで出会った、ミャンマーの仏教徒の死者への扱いについての記述がある。
 
乳児の死

 (ミャンマーの)タンボー村には一台だけ自動車がある。自動車といっても第二次大戦中に作られたフォード製の大型トラックで、村の外に出るための村人たちの唯一の足になっている。毎朝積みきれないほどの村人と農作物を荷台に載せて村を出る。目的地は一時間ほどのところにあるイェナンジャウンという町で、村人たちが胡麻やヤシ砂糖を現金に換え買い物を済ませると、再び彼らを乗せて村に帰って来る。
 このトラックは、ある家の庭が発着場になっており、そこは村人たちのたまり場でもあった。場所も広く情報が入りやすいこともあったので、私たちは家の主にお願いして庭の片隅を休憩所に使わせてもらっていた。家の人の気遣いで、そこにはいつもヤシの枝で作った安楽椅子がスタッフの人数分並べられていた。日中は暑く四〇度を超える日も多い。私たちはそこでお茶を飲み、時には昼寝もした。
 村の取材を始めてひと月くらいたった頃だった。撮影を終えて帰って来ると、村の女たちがなにやら慌ただしく行き来している。 私たちの休憩場所のちょうど正面に若い夫婦の住む小さな家があって、そこに人だかりができている。 夫婦には生まれて間もない双子の女の子がいるが、その一方の容態が悪いのだという。 やがて家の中からすすり泣きの声が聞こえてきた。息を引き取ったのだ。亡くなった子は生後九か月で、二日ほど前にひいた風邪をこじらせ、肺炎をおこして亡くなった。村に一人いる看護婦が駆けつけたが手遅れだった。
 村には病院もなければ医者もいない。看護婦がいる村の保健所には満足な薬も揃っていない。一度私たちは、難産に苦しむ妊婦を夜遅く町の病院まで連れて行ったことがある。その時は、私たちの車がなければ母子ともに命が危なかった。 亡くなった子も、容態の悪いことをもっと早く知っていれば車で病院に連れて行くこともできたかもしれない。よく知っている子だったこともあり、悔しい思いが胸をよぎった。
 間もなくすると死んだ子の家に男たちが何人か入っていった。見ると、泣き叫ぶ母親から赤ん坊を引き離そうとしている。集まった親族たちも、早く子供を渡すようにと母親を促している。男たちに渡されると遺体はすぐに家の外に出され、棺桶代わりのざるの上に載せられた。やがて墓に向かって葬列が始まったが、息を引き取ってから三〇分とたっていない。僧侶が現れる様子もない。村人に聞けば、子供は早く葬ってやらないと、魂が両親のもとに止まりよい転生ができないのだという。
 タンボー村で取材を進める間、私たちは何度かほかの葬儀にも出合ったが、大人の場合も驚くほどあっさりしたものだった。儀式らしい儀式はほとんど行われない。亡くなった人の家に親族と友人が集まり、しばし別れを惜しんだ後、その日のうちに埋葬される。僧侶が呼ばれることもあったが、それは遺族が布施をして功徳を積むためであって、死者に向かってお経を上げるためではない。遺族は得た功徳を死者に送り、死者が少しでもよい業を得て、よい転生が迎えられるようにするのである。
 死んだ子の葬列が墓に着くと、遺体は布に巻かれそのまま土に埋められた。その時、いく粒かの豆がそっと墓穴に入れられたが、その豆が芽を出す時に子供は生まれ変わるのだという。墓には墓標さえ立てられなかった。動物が荒らさないようにと棘のある木が置かれたが、それもいずれ失われるだろう。 新しく埋葬されたところ以外は、墓は雑草の生えた単なる荒れ地にしか見えなかった。
 村人は「死体は草履ほどの値打ちもない」と言う。輪廻を信じるものにとっては、死んだ後の肉体は脱ぎ捨てた古い衣のようなものだ。従って人々は墓参りすることもない。ただ、親しかった者の死後の転生先を気遣う。 子供の両親は、翌朝、僧院を訪れ朝食の布施をしたが、それはその功徳を子供に送りよき転生を願うためだ。
 赤ん坊の葬式の様子を見ながら、この村の置かれた環境の厳しさを実感した。聞いた話では、村では一年の間に一〇人を超す子供たちが命を落とすという。乳児死亡率の高さは、医療施設の不足だけが原因ではない。土地のやせたこの地方では、穀物は採れず子供たちの栄養も不足しがちだ。 現世での生存が厳しい土地だからこそ、よき来世を願う輪廻の考えが強く根付いているのかもしれない。(石井米夫監修 『NHKスペシャル ブッダ大いなる旅路2』 日本放送出版協会 1998年 pp.p.61-63 冒頭()は引用者補足」

 

今引用した文章にあるように、ミャンマーの仏教では日本のような葬式はないし、墓もまともに存在していない様子がある。

 

ミャンマーは小乗の仏教の宗派で、基本的に小乗だと原始仏典とそれにプラスして、小乗の注釈やらのテキストを元に仏教をやっている様子がある。

 

原始仏典は広範なテキストで、日本語訳は全70冊あって、一冊一冊が数百ページに及んでいる。

 

 

この本の大きさは少年ジャンプと同程度で、この厚さの本が70冊分という話になって、更にはその翻訳が出たのは戦前で、現代日本人が読書に耐えうる、今画像で用意したような現代語訳は全体の半分未満しかないのであって、僕はその全容を全く把握できていない。

 

…どうも戦前に出た原始仏典の翻訳と、この現代語訳とでは本に収録する分を合わせているようで、現代語訳だと長部経典が三冊で、戦前の方も三冊で、中部経典は揃って四冊で、相応部経典も揃って6冊だから、実際のテキストの量を感覚的に分かりやすくするために先の画像は用意した。

 

まぁ画像で用意したような本で70冊分の分量があるのが原始仏典だという話です。

 

ともかく、その広範なテキストの何処かに仏教における葬式の話はあるかもしれないとは思っている一方で、ミャンマーの先の引用を読む限り、やはり本来的には仏教的に葬式はさして重要でもないのだろうと思う所がある。

 

先の本が書かれた1998年時点でのミャンマーでは、小乗仏教の教えが仏教として伝えられていたらしくて、小乗の教えには膨大な注釈がつくとは言え、基本的に僕が今話題にしている原始仏典に書かれている教義が信奉されている。

 

NHKが取材したミャンマーの仏教徒の人々はとても敬虔な信者で、人々は仏僧の言葉を聞きに寺院に行ったり、来世幸福に生まれるために布施を行っているという当時の有様が言及されている。

 

もしここで、原始仏典の中に、古代中国の『礼記』で見たような葬式に関する取り決めがあったとしたならば、仏僧はそれを知っているはずになるし、その葬式の作法を知っている仏僧が、人が死んだ時に呼ばれた場合、その粗末な埋葬に仏教式の正しい作法を口入しない道理はない。

 

そうだというのにミャンマーでは死者は簡単に埋められるだけで、そこに古代中国で見たような儀礼はないし、人々は「死体は草履ほどの値打ちもない(同上)」と言っている。

 

「輪廻を信じるものにとっては、死んだ後の肉体は脱ぎ捨てた古い衣のようなもの(同上)」とも言っていて、これについても実際に原始仏典で言及されている内容と親和性があって、原始仏典で言及されるところでは、生きていることは苦痛で、肉体は悪で、生まれないというあり方が望まれていたりする。

 

その人が今死んだのは、前世の悪業の結果であると先の本の他の箇所でミャンマーの仏教徒が認識しているという話がされていて、その話については原始仏典の時点ではその色はあまり強くなくて、むしろ小乗以後の教えなのだろうけれど、そういうニュアンス自体は原始仏典にあって、原始仏典をそれなりに読んでいる僕としては、ミャンマーの仏教徒の発想はやはり、原始仏典の記述に強い影響を受けているのだろうと思う部分がある。

 

そうだというのにミャンマーの人々の間では葬式は簡単に埋葬するのみであるということを考えると、原始仏典には葬式に関する儀礼の話が殆どないのだろうという推論はある。

 

結局の所、原始仏典の時点では仏教にロクな葬式の儀礼に関する記述はない様子があって、一方で日本の葬儀の儀礼については、『礼記』や『儀礼』に言及がある所を考えると、やはり、あの文化は中国の伝統であって、仏教でも何でもないのだろうという推論が妥当性を帯びてくる。

 

一応、古代インドにも葬式に関する儀礼自体はあって、その話は『バウダーヤナ・ピトリメーダ・スートラ』に言及がある。

 

…今から引用するけれど、学術論文に載った翻訳で何言ってるか分からないだろうので、読み飛ばしても大丈夫です。


「I.2.1 「大いなる直路に沿いて遙かに去り多くの者(死者)のため道を発見したる・Vivasvatの子, 人間の召集者・Yama王を, 供物もて崇めよ」 (TA.VI.1.1) と唱えて. この同一〔詩節〕を唱えてgārh. 祭火に 〔献供する〕Inan-tra を唱えることなくdaksināgni に献供して次に彼(死者)を持ちあげ, vedi と utkara との間を通って北方に運び、次いで彼を隠蔽し,その南方に出入口(dvāra) を作る。次に彼の頭髪・口髯を剃らせ,身毛を剃り除き、爪を切らさねばならない. 次に彼の右腹を切り開き,糞便を取り除き,水で洗滌し, sarpis をもって腸を満たし, darbha 草をもって縫合する.5 しかしこのようにしてはならない。〔もしこのようにすれば〕 彼の子孫が飢に悩むと伝えられている.これに反し糞便を蔵するままで彼を沐浴させ, [衣服で] 蔽い, 装飾し,次いで彼を持ちあげ, vedi と utkara の間を通って進み, gārh. 祭火の後方, āsandi (寝椅子)の上に敷かれた] 黒い羚羊の皮(ksnājina) の上に頭を南方に向けて横たわらせ、頭にnalada の花環を巻きつけ, 縁を足部に向けた新しい衣服をもって蔽う「この衣服は汝に今最初に「来たれり」 (TA.VI.1.1) と唱えて、次いで他の〔衣服〕 (旧衣) を脱がせる : 「汝がここに今まで纏いたるこの〔衣服を〕脱げ. 祭祀・布施の功徳を, daksinā を,汝によりしばしば縁なき者にも与えられたることを眺めよ」 (ibid.) と唱えてそして彼 (死者)の息子或いは門弟或いは妻が, 〔それを〕 着用せねばならない。それを実に老齢にいたるまで 着ねばならない, 或いは 〔少くも〕その日の残りの間。

(引用者注:この辺りの文章は良く分からなくなっているけれど、おそらく誤訳で、この文章だと「彼の子孫が飢に苦しむ」という話から文章が長々と続いていて、ただ文章の流れを考えるに、「これに反し糞便を蔵するままで彼を沐浴させ」で一区切りで、内臓の除去という儀式を怠ると子孫は飢えに苦しむことになるという文意だと思う。そうじゃないと葬式が始まるのに遺体は素っ裸のままになってしまうし、死者を飾ることや、遺族が死者が着た衣服を末永く着続けることが子孫が飢えに苦しむ悪徳とは想定できない。)

 次に3頭の山羊を用意する (upakalpayate). そしてもし山羊がないときは、vedi内において脱穀した黒米で作った3〔椀〕 の caru或いは1〔椀〕 を daksinagaiで調理する. gårh. 祭火でāmiksāを調理する. 次にこれらの必要品を用意する: sarpis を混じた dadhi, ājya, 1瓶の水, 〔祭火の〕周囲に敷くための darbha草,黄金, 山羊1頭10, 小刀, idasūna (俎板), 注水に用いる土製の瓶。 砂利(sikatāh), 紐, 3本の parna 樹の枝.いかにして実に彼 (死者) を焼くべきか. 多くの祭祀を行った者は、āhav.祭火によって焼くべきであると,これ一説. 常時保持した 〔祭火、pl〕によって彼を焼くべきであると,これ一説 鑽りだした 〔火, pl〕によって彼を焼くべきであると,これ一説. uttapaniya 火 (pl.) 12 によって彼を焼くべきであると。これ一説 或いはまた3束のulaparāji (敷草の一種)を燃えたたせ、これらの大が合体するところ,そこに燃えさしの薪 (ulmuka) を燃えたたせ、それによって彼を焼くべきであると, これ他の一説 .(辻直四郎 『ヴェーダ学論集』 岩波書店 1977年 pp.338-339)」

 

僕の方で簡単に説明すると、まずヤマ神(閻魔大王)を称える呪文を唱えて、死体を所定の位置に運んだ後に、爪を切ったり髪をそったり内臓を取り除いたりして死体を浄化して、その後に死体を飾り立てて呪文を唱えて、遺族の方も衣服を着替える。

 

そうして生贄の羊とか儀式に必要なものを用意して死体を焼くけれど、死体を焼くやり方は諸説あって、その諸説が列挙されている、という感じだと思う。

 

ここに内臓を取り除いて腹の中をきれいにする話があって、やはりインドだと気温が高すぎて、そういう処置をしないと葬式をする間に死体が腐ってしまうのだと思う。

 

一応、エジプトのミイラ作りも内臓を取り除くのは一緒で、ただその辺りは同じように暑いところだから同じような発想が生まれたのか、エジプトからインドにそのような情報が辿り着いた結果なのかは分からない。

 

インドの文字であるブラーフミー文字とか元を正せばエジプトの神聖文字の系譜なのだから、エジプトの情報がインドまで来たという可能性はあるけれど、そういう風に渡ってきた文化なのか、インドで別個に生まれた文化なのか、そのどちらかなのかを判断する材料を僕が持っていない。

 

まぁともかく、どう考えても僕らが知っている葬式と『バウダーヤナ・ピトリメーダ・スートラ』で語られる葬儀の儀礼とでは差異が甚だしいわけであって、現在の日本の葬式との類似点は火葬するという点くらいしかないのではないかと思う。

 

実際、日本の火葬に関しては仏教の文化で、原始仏典の『マハー・パリニッバーナ・スッタ』で仏陀は火葬されている。

 

二二、次いで尊者大カッサパは、クシナーラーの天冠寺であるマッラ族の祠堂、尊師の火葬の薪のあるところにおもむいた。そこにおもむいて、〔右肩をぬいで〕衣を一方の〔左の〕肩にかけて、合掌して、火葬の薪の堆積に三たび右肩をむけて廻って、足から覆いを取り去って、尊師のみ足に頭をつけて礼拝した。
 かの五百人の修行僧も、衣を一方の肩にかけ、合掌して、火葬の薪の堆積に三たび右肩をむけて廻って、尊師のみ尊師のみ足に頭をつけて礼拝した。
 そうして尊者大カッサパと五百人の修行僧とが礼拝しおわったときに、尊師の火葬の薪の堆積はおのずから燃えた。
二三、 尊師の遺体が火葬に付せられると、膚も、皮も、肉も、筋肉も、関節滑液も、その燃えがらの灰が認められないで、遺骨のみが残った。譬えば、バターや油が焼けるときには、煤や灰の残るのが認められないように、それと同じく、尊師の遺体が火葬されたときには、膚も、皮も、肉も、筋肉も、関節滑液も、その煤や灰が残るのが認められないで、遺骨のみが残った。そうしてそれらの五百組の衣のうち、最も内部のものと最も外部のものとの二つの衣だけが焼けた。
 さて尊師の遺体の焼けたときに、虚空から水流が現れて降って来て、尊師の火葬の薪を消し、 [地下の〕水屋からも水流がほとばしって来て、尊師の火葬の薪を消した。 クシナーラーの住民であるマッラ族の人々も、あらゆる香水をもって尊師の火葬の薪を消した。
 そこで、クシナーラーの住民であるマッラ族は尊師の遺骨を、七日のあいだ公会堂のうちにおいて、槍の垣をつくり、弓の柵をめぐらし、舞踊・歌謡・音楽・花輪・香料をもって、尊び、つかえ、敬い、供養した。(中村元監修 『原始仏典 第二巻 長部経典Ⅱ』 春秋社 2003年 pp.215-216)」

 

 

…仏陀が死ぬと何処からか水が沸いてくるんすね。

 

まぁ原始仏典で言う所の虚空は、天空の意味である場合があるから、雨が降ったって話なのかもしれない。

 

とはいえ、水流って言うんだから雨じゃないだろうし、地下水が湧き出したという話は超常現象としてしか処理しようがないけれども。

 

ちなみにこのテキストには仏陀の死後しばらくしてから作られ始めた仏塔についての記述があるから、成立はそれなりに遅いと注釈で書かれていた記憶がある。

 

なんにせよ、虚空から水流が湧いてくる時点でファンタジーで、熱心なファンの二次創作と考えて相違はないと思う。

 

ともかく、日本の火葬についてはこのような仏陀の火葬と関係があって、確か仏教が入ってきた時代に日本でも火葬が始まったと聞いたことがある。

 

ただけれども、尊い人が火葬で死体を焼かれたという故事があるだけで、尊くない普通の人々も火葬で燃やすべしだなんて記述はないし、場所によっては火葬用の薪も用意できないこともあるはずで、ミャンマーの仏教ではその辺りは採用されていない様子がある。

 

最後に、そのように日本の仏教の葬式の儀礼は本来的に仏教でも何でもない様子があるわけだけれども、じゃあ日本の葬式を仏教の教えではないという理由からボイコットすべきであると僕が考えているかについてだけ書くと、それでも、普通に日本の葬式には現在の儀礼のまま参加した方が良いとは考えている。

 

結局、ここで今ある葬式の儀礼を拒否したところで何の得があるのだという話であって、それをして得ることが出来るのは、自分は正しく物事を理解しているというちょっとした優越感を対外的に示すことが出来る程度で、その事に葬式に来る親族や会社の同僚および上司に、頭のおかしな奴と思われるというデメリットを帳消しに出来るメリットは存在しているとはとても思えない。

 

今現在の日本に生きているのだから、今現在の社会的な制約に縛られて生きているわけであって、その通俗的な風習を拒絶しても得られるのは、ちっぽけな虚栄心の充足だけで、反対に失う信頼などのデメリットは看過できるものではない。

 

そういう風に生きて、もしかしたら満足感を得られるかもしれないけれど、そのような小さなプライドのために対人関係の信頼を失うのは愚かとしか言いようがないわけで、逆に葬式の儀礼を跳ね除けて得られるメリットとかは特にない。

 

そもそも、日本にある仏教の教えなんてものは大乗仏教の教えであって、この大乗の教えが書かれている大乗の経典は、その全てが全て、偽経でしかない。

 

「 なお、大乗経典は、まったく新しく創作されたものであり、その教えはゴータマ・ブッダに仮託されているが、もちろん、阿含経典と異なり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダの教えに源を発するものではない。そこで、大乗仏教が登場するや、伝統仏教の側からは、「大乗非仏説」(大乗は仏説にあらず)との非難が投げつけられた。
 日本仏教は完全に大乗仏教の流れを引き継いだものなので、今でも経典に説かれている教えはゴータマ・ブッダの教えだと広く信じられているが、これは事実に反する。事実は、まさに「大乗非仏説」なのである。
 僧侶で仏教学研究にたずさわっている学者たちは、そこで、宗門の立場とアカデミズムの立場とのあいだのギャップに悩まされる。そこで、一部の学者たちは、「解釈学」などと称して、初期仏教経典を大乗仏教的に解釈し、大乗仏教は、ゴータマ・ブッダの教えの「スピリット」を忠実に引き継いだ仏教なのだと主張する。しかし、これはもはや「神学」であって、やはりアカデミズムからの逸脱しかないと思う。(宮本啓一 『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』光文社文庫 1998年 p.43)」

 

…これ名前出してないだけで中村元批判だな。

 

仏教学の中で一番権威のあった中村元は仏教徒で、自著の中で大乗の経典は直接には仏陀の教えではないけれど、仏陀のエッセンスは存在しているって言及してたし。

 

まぁ中村元が原始仏典を大乗的に解釈までやってはいないと思うけれど。

 

そういう風に大乗仏教は所謂セクトでしかないけれど、そもそも原始仏典の時点で仏陀は超能力で人の心を読むし、仏陀が死んだら虚空から水流が湧いてくる時点で、あのようなものは後世の創作でしかない。

 

何故なら、人間は超能力で人の心は読めないし、死んだとしても虚空から水流は湧いてこないけれども、創作物でなら人間は超能力で人の心を読めるし、虚空から水流が湧いてくることも可能であって、原始仏典のその殆どのテキストが、何処かの誰かが書いた二次創作でしかない。

 

ここまで読んだならば、僕が時たま言う、古代インドのおっさん"連中"が妄想した内容に、世界の真理が含まれるという議論の意味が分からないという話も分かってくる場合もあるのかなと思う。

 

そのようなものを読んでどんな意味があるのかと思う部分はあって、けれども僕の目的は、様々な地域の古代の時点での文化に関する記述を読むことで、現在のように情報が行き来してしまって、画一化する前の段階での人々の振る舞いの差異を見ることで、人間にとって生来的なものとそうでないものを判別するという所にあるわけで、仏典がどんなにファンタジーだとしても、それを書いたインド人の文化は知ることが出来て、それを知るために色々やっている。

 

そんな感じの葬式について。

 

…葬式について書くと言ってから、随分と時間が経ってから書いたな、って。

 

まぁ言い出した頃は確か、『ヴェーダ学論集』は読んでいなかったから、当時書くより今書いた方が情報量は多かっただろうとは思う。

 

まぁ多少はね?

 

では。