不良少年とキリスト/坂口安吾
1948年6月13日、情死した太宰治への追悼文。
歯痛の愚痴から始まり、太宰の死を冷静に見つめながらも、随所に熱い思いが垣間見えます。
同じ時期に活躍した文豪「太宰治」の死を聞かされた『無頼派』坂口安吾が、彼の死について独自の感性で記した作品です。

彼の死を単純に悼むだけでなく、生きることに対する強いメッセージで締められています。
また日本の敗戦や原爆についても、当時の生々しい感性で綴られています。
おれはこの作品については、たしか角川の『堕落論』に収録されていたものを読んだのが初読だったと思いますが、時々ふと読み返したくなってしまう不思議な作品です。
今回、なぜこの作品について紹介しようと思ったかと言うと、自分が太宰の亡くなった年齢である三十八の年になったため、太宰について触れておきたいと感じたためです。
本当は太宰の『斜陽』等に触れるか、『人間失格』をお話するかと考えましたが、太宰の死について最も適切に書かれているのはこの作品だと考えました。
心の安定について考えるとき
今回、この『不良少年とキリスト』についてお話しようと思った理由に、漫画家の鳥山明氏の訃報のことがありました。
誰かの「死」に直面したとき、人の「心」はとても不安定になりませんか?
それは家族や近親者のときばかりとは限らないと思います。
例えば芸能人やスポーツ選手など、間接的に影響を受けた人でも同様です。
坂口安吾もまた、たくさんの人の「死」に直面するたびに、神経衰弱に悩まされました。
若い頃から心身のバランスを崩すことの多かった坂口ですが、
芥川龍之介の自殺はさらに神経衰弱に拍車をかけます。一時期は自殺欲に苛さいなまれたと言います。
この作品の関係者(登場人物?)
坂口安吾 (さかぐちあんご) -私
本作品の著者。代表作『堕落論』『不連続殺人事件』『桜の森の満開の下』
本作品を含め、日本の敗戦と向き合った著作も多く、『無頼派』を標榜しました。
太宰 治(だざいおさむ)
作家。本作品で語られる対象になる作家。
代表作『津軽』『斜陽』『走れメロス』
1948年、玉川上水で入水自殺を遂げました。享年は38歳。この事件の報を受けた安吾が本作品を執筆している形になります。
檀 一雄(だんかずお)
直木賞受賞作家。太宰の自殺の報を安吾に持ってきます
ストーリー
『太宰という男は、親兄弟、家庭というものに、いためつけられた妙チキリンな不良少年であった。』
ひどい歯痛に悩まされた安吾は医者に処方された薬を飲んだけれど、治らず痛くて、我慢してい最中に奥さんと喧嘩したりしながら平和な日々を過ごしてしました。
そんな中、同業の檀一雄が、太宰の情死の報をもってやってきました。
それを受けた安吾が、生前の太宰治の回想をはじめます。
安吾自身は、実は記者から第一報を受けて、太宰死去については事前に知っていたようです。
太宰は実は生きていて、安吾が匿っている説などを記者から聞きます。
しかしながら、太宰は本当に死んでしまっていたのでした。自殺未遂をしても結局は死ななかった太宰が、本当に死んでしまったことに、安吾は衝撃を受けます。
「M・C、マイコメジアン、を自称しながらどうしても、コメジアンになるきることが、できなかった。」
「フツカヨイをとり去れば、太宰は健全にして整然たる常識人、つまり、マットウの人間であった。」
そう、太宰は通俗的で「マットウな人間」なのでした。そして、コメジアンになりきることができない人間だと語ります。
生い立ちからなのか、生来のものなのか、どうも太宰は健全な常識人であることをどこか恥じていて、だからこそM・C(マイコメジアン)を演じていたのではあるまいか。
「情死だなんて、大ウソだよ。(中略)第一、ほんとに惚れて、死ぬなんて、ナンセンスさ。惚れたら、生きることです」
「惚れたら、生きることです」
生きることについて安吾は以下のように語ります。
「生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分からんという問題ではない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありゃせぬ。おまけに、死ぬ方は、ただなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やり抜いてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも死ねる。そんなつまらんことをするな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃない。」
この文章を、既に死んでしまった人に言うのが、後の祭りというか、痛烈な気もしましたが、安吾自身の太宰の死に対する痛切な思いの表出なのかもしれません。
本作を読んだのちに、太宰作品をもう一度触れると、感想がかなり変わると思います。
最後に
今、世の中すごく不安定な状況下と思います。
コロナもそうですし、安倍元総理が亡くなったことは、日本中に暗い影を落としています。
外的要因で気持ちが不安定になった時には、いつもこの本を読みます。安吾が生きた終戦の世の中と比較すると、今の世は比べ物にならないくらい安定しているかもしれません。
しかし、現在ウクライナの戦争もありますし、世界情勢は以前も比べると段違いに悪くなっています。物価も高くなり、生活不安も増しています。
そんな時に、安吾のひと言ひと言が響きます。
『原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。』
是非とも一度、手に取って読んでみてください。いろんなコンテンツに溢れ、ネットやYouTubeなど娯楽に溢れた世の中ですが、やはり純文学に触れることは、人生を豊かにすると思います。M・C、マイ・コメジアン。