元外交官の佐藤優氏が語る、外交的視点から見た歴史問題を抜粋しました。
「例えば、独墺関係について、ドイツが加害者、オーストリアが被害者ということになっているが、ナチズムの台頭について、客観的に見るならば、オーストリアの責任が免罪されることはどう考えてもおかしい。
また、フランスにはビシー対独協力政権があった。しかし、フランスは被害者なのだ。
西独はこのような徹底的な土下座外交を展開することによって、歴史認識や過去の清算に関して外交交渉にかけるエネルギーを極小化し、国家目標であるドイツ統一を実現したのである。
土下座は手段に過ぎない。結果として、国益を増進し、国家目標を達成すればよいのである」。
杉原千畝(1900-1986年)
「1940年7月、(カウナス領事代理)、杉原(千畝)氏は外務本省の訓令に違反していることを承知しながらユダヤ人難民に通過査証を発行する。この『命のビザ』により約6千名のユダヤ人が救われたといわれている。
杉原氏は戦後、外務省を依頼退職した。杉原氏の家族は、訓令違反のビザを発給したことが原因で杉原氏が退職に追い込まれたという認識をもった。杉原千畝氏は1986年に逝去した。
死後、夫人の杉原幸子氏(2008年10月8日逝去)が1990年に『六千人の命のビザ』を上梓した。この本を読んだ鈴木(宗男)外務政務次官が、『何としても杉原千畝氏の名誉回復をしたい』と外務省幹部に働きかけた。
当時の外務省は、杉原氏はあくまでも依頼退職で、外務省が間違えた判断をしたことはないので、名誉回復の必要はないと言う姿勢だった。
しかし、鈴木氏の意思は強固だった。鈴木氏は外務省にとって重要な応援団だ。そこで外務省は、姑息な妥協策を考えた。
外務大臣、政務次官、事務次官以下、外務省幹部の執務室は4階に集中している。鈴木氏も普段は4階の政務次官室で執務をしている。
霞が関のその外務本省ではなく、外国要人の迎えレセプション(宴会)を行う外務省飯倉公館で鈴木氏が杉原幸子氏と会い、鈴木氏が遺憾の意を伝達するという手法をとった。
要するに政治家鈴木宗男のイニシアティブで行われたことで、外務政務次官の行為としての色彩を極力薄めようとしたのだ。外務官僚が政治家の意向にいやいや従うときによくとる手法だ」。
「1993年10月に公式訪日した際、シベリア抑留問題について、天皇陛下による謁見、細川 護熙(もりひろ)総理との会談、シベリア抑留者団体代表者との会見の席で、エリツィン大統領は日本式に深々と頭を下げて詫びた。
ロシアの国家元首が外国人に対して詫びた事例はきわめて稀であるが、それはエリツィンがシベリア抑留はスターリン主義の暴挙で、それに対して、謝罪し、スターリン主義と訣別することがロシアの国益に貢献すると本気で考えていたからである」。
『交渉術』、佐藤優、文藝春秋、2009年