
『日曜報知』(昭和10年12月発行)
実家に保存されていた昭和10年12月発行の雑誌、『日曜報知』からの転載です。昭和6年に満州事変が起きましたが、その後の満州では陸軍による匪賊討伐が行われていたようです。
「日の丸隊長」こと、前田陸軍中尉の最期は昭和15年公開の陸軍映画「燃ゆる大空」のラスト場面に似ています。つまり内容は典型的なプロパガンダ、この死に様を手本とすべし、ということなのではと思います。
松井部隊長という軍人も登場しますが、誰なのか詳細不明です。文章は現代仮名遣いに改めました。
【討匪行美談】『“日の丸隊長”の最期』 豊島清雄
酷寒が襲ってきた満州の野に、西南地区の掃匪に活躍する松井部隊は、匪賊の首魁劉振東(りゅう・しんとう)を倒して、古賀連隊長以下の英霊を葬(とむら)い、半農半匪と言われる付近の住民を宣撫(せんぶ)して、皇軍の精華を発揚し、王道楽土の建設に献身的に努めている。
『俺の身体に匪賊の弾丸(たま)なんてあたってたまるものか。俺に続け・・・進め!進め!』
こう叫びながら日の丸の国旗を右手に高く翳(かざ)し、左手に軍刀を揮(ふる)って、一隊の先頭に立って猛牛のように弾丸雨飛(だんがんうひ)の中に突進する勇敢な隊長こそ、松井討伐隊の華とうたわれる前田勝栄(しょうえい)中尉だ!
『日の丸隊長を殺すな!』
と、一隊の士気は大いに揚(あが)り、突進また突進・・・敵を蹂躙していた。
今度の討匪行(とうひこう)で一番激戦を展開し、戦死者を出した謝字杖(じゃじじょう)付近(熱河省・ねっかしょう)六二三高地の先頭でも、前田中尉は相変らず
『匪賊の弾丸(たま)なんてあたるものか・・・』
と、口癖のように叫びながら、敵が山頂付近の険崖(けんがい)、岩窟を利して、重軽機関銃で猛射を浴びせる中を、最先頭に立って、日章旗を打振りつつ、悠々と最高稜線を前進した。
吃驚(びっくり)したのは敵で、自分達の猛射する弾丸(たま)を無視して無人の境(きょう)を行くが如く、ドンドンドンと突進してくる日の丸の勇士に、恐怖しながらも、重軽機関銃で中尉を一斉射撃したが、中尉は部下を激励して、敵前2百米(メートル)に迫った。
「写真は記念墓標と松井部隊長」。墓標には「故陸軍歩兵大尉前田勝栄」とある。
泰然自若として敵前に立って状況を視察していた中尉は敵がよる高地を奪取することは、我(わが)討伐隊全軍のため、極めて重要なことを看守し、正面の敵に突撃を敢行する決心をして、部下に準備を命じた。
『突撃!』
中尉の号令と一緒に、隊は決死の覚悟で肉弾となって突撃した。敵は狼狽して猛射を浴びせて、窮鼠の如く頑強に抵抗した。
決死の色も物凄(ものすご)く、先頭に立った中尉は阿修羅のごとく奮戦して、刃向う敵を斬り倒し、なぎ捨てて、敵前五十米(メートル)まで接近した。
『進め!進め!』
いま一息で敵陣を奪取せんとした時、不幸にも敵の一弾は、中尉の右胸部を貫いた。サッと鮮血に染った中尉の戎衣(じゅうい)――。
『隊長殿!』
部下は中尉のもとに駆(かけ)寄ったが、再び起(た)つことの出来ないことを直感し、暗然としていた。
中尉もそれを悟ったであろう。日章旗を取出して
『俺の身体を一番高い所へ運べ!』
と、命じ部下が逡巡するのを見て、
『早く運べ!早く!』
と、厳命してまさに息絶えんとする身を、一番高い岩石上に運ばせ、日章旗を立てて、
『天皇陛下万歳!』
と叫び、部下には、
『突撃!進め!』
と号令しつつ莞爾(かんじ)と瞑目した。この中尉の壮烈な最期を眺めた一隊は、
『隊長の復仇(ふっきゅう)だ!敵は皆殺しにしろ!』
と、奮い立って突撃または突撃、遂に敵の高地を奪取した。この高地を失った敵の陣地は混乱に陥り、我(わが)討伐隊のために、殲滅されてしまった。
戦闘が終ってから、松井部隊長はこの勇敢な部下の戦死を心から痛み、中尉戦死の高地に『陸軍大尉前田勝栄(しょうえい)戦死の跡』(戦死後に大尉に昇進)と、記念の墓標を立てて厚く英霊を弔った。