
4月7日は昭和20年に戦艦大和が沖縄特攻に出撃し、坊ノ岬沖(鹿児島沖)で撃沈された日でした。
それにちなんで大和に関する事を書こうと思ったのですが、この話は既出が多くなってきたので、なぜ大和の特攻が決定されたのか、その背景を取り上げます。
まず天一号作戦、つまり大和の沖縄特攻が決定した決定的事件ですが、軍令部総長だった及川古志郎大将の発言から始まります。
及川軍令部総長が沖縄の陸軍第三十二軍の総攻撃に対し、海軍も作戦「菊水一号作戦」にて提携を行うと昭和天皇に奏上しました。
菊水一号作戦は米軍艦艇の沖縄進攻を阻止しようと、航空機での体当たりをかけた海軍の特攻作戦です。昭和20年4月6日から6月まで実施されました。
その際天皇からの「航空部隊だけか」とのご下問に対し、とっさに「海軍の全力を投入します」と奉答してしまい、引っ込みがつかなくなってしまいました。
昭和天皇は具体的な指示をしたわけではなかったのですが、及川には「水上部隊は出撃しないのか」という催促に聞こえたようです。
このやり取りを見ていた宇垣纏(まとめ)・第5航空艦隊司令長官は当時の日記に「帷幄(いあく)にありて籌劃(ちゅうかく)補翼の任にある総長の責任蓋(けだ)し軽しとせざるなり」と記しています。
つまり、天皇の側近であって適切な助言をし、政務を助けるはずの総長が役目を果たさなかった。その責任は軽くないという激しい批判です。
これまでも海軍内部には大和を沖縄方面に使うべき、という声が上がっていました。海軍での作戦を決めるのは軍令部でしたが、当時軍令部第一部長であった富岡定俊少将は以下のように回想しています。
「航空は、これまで特攻で死闘を続けて来たが、まだ水上部隊が残っているではないか。皇国存亡のこの際、これを使わぬ法があるかというような声も喧(かまびす)しくなって」いました。
また連合艦隊司令部の先任参謀であった神重徳(かみ・しげのり)大佐も、及川軍令部総長と昭和天皇のやりとり以前より、大和の沖縄特攻の構想を抱いていました。
神の主張は大和で沖縄までたどり着き、陸に乗り上げて大和を「海岸砲台」にすれば、連合軍の侵攻を6か月食い止められる、というものでした。以下は神先任参謀の発言です。
「沖縄の浅瀬に大和がノシ上げて、十八吋(インチ、46センチ)砲を一発でも撃ってごらんなさい。日本軍の士気は上がり、米国軍の志気は落ちる。どうしてもやらなくてはいかん。
もしこれをやらないで、大和がどこかの軍港で繋留されたまま野たれ死にしたら――。非常な税金を使って、世界無敵の戦艦、大和、武蔵を作った。無敵だ無敵だと宣伝した。それをなんだ、無用の長物だと言われるぞ。そうしたら今後の日本は成立しないじゃあないですか」
神の主張は当初無視されていました。しかし天皇の「ご下問」事件があった際に、困った及川軍令部総長はこの問題を豊田副武・連合艦隊司令長官に丸投げしたところ、神先任参謀長がこの特攻作戦を提案し、急きょ大和が出撃することとなったわけです。
このように大和が沖縄特攻の対象として選ばれたのは、これまで「大和ホテル」と豪華客船のごとく皮肉られていた背景もありました。
万が一戦艦大和を温存したまま戦争が終わってしまったら、どんなに批判されるか分からない、という懸念です。
また神の「大和を沖縄で海岸砲台にする」という構想も現実離れしていました。当時日本が制海権を失った沖縄まで、航空機の援護なしの裸艦隊で出撃するのは自殺行為です。沖縄までたどり着く可能性は、限りなくゼロに近いといえます。
戦艦を陸に乗り上げ海岸砲台にするという作戦も、現実的には不可能です。主砲は艦が水平でないと撃てず、水圧装置が壊れたら、主砲は動かなくなります。
当時、大和の信号兵であった川潟光勇氏も沖縄特攻作戦に疑問を呈していました。
「死ぬのが恐いと思わなかったけど、陸上に乗り上げて砲台になるなんて本当にできるのか。船体が傾いたら主砲は撃てないのに、と思った」
末端の兵でさえも、「海岸砲台」は不可能であると認識できる位の破天荒な構想でした。
大和の沖縄特攻の決定には、組織の体裁を取り繕うといった体面上の思惑が重視された背景があったたようです。そのため戦果を上げるという、本来の目的から逸脱してしまった作戦となりました。
『提督伊藤整一の生涯』、吉田満、洋泉社MC新書、2008年
『戦艦大和最後の乗組員の証言』、八杉康夫著 粟野仁雄構成、ワック、2005年
『戦艦大和』-生還者たちの証言から、栗原俊雄、岩波書店、2007年