一度実家の蔵の中の古い物をチェックしてみようと思っていたのですが、今回帰省してそれをする機会がありました。素晴らしく貴重な古物というのはないのですが、よろしければご覧ください。
■明治時代の漢和辞典
明治初期の漢和辞典です。厚さ数センチで手の大きさサイズ。
出版年が明治8年の乙亥(きのとい)の年、つまり1875年に再版されています。現在の2013年から遡って138年前の辞書です。
編集者の氏名も苗字がないようで、名前も江戸時代っぽいです。
行李(こうり)の中に何やらいろんな物が・・・。実家は一回蔵を建て替えて、昔のガラクタをかなり捨ててしまったのですが、古い物は一部保存しておいたらしくて安心しました。昔の物に興味のない家人が多いので。
■明治前期の軍人武勇伝
『帝国軍人 名誉列伝』と表紙に書かれている本です。(以降、旧漢字は当用漢字に改めてあります)
出版年は明治27年。日清戦争(明治27~28年)が始まった年で、日露戦争(明治37年)はまだ10年先です。
内容は山縣有朋など有名どころから知らない軍人まで、日清戦争までの明治軍人の武勇伝です。
下の欄の右から8人目に「陸軍歩兵一等卒 白神源次郎君」と記されてあります。彼は日清戦争に出征し、「死んでも口からラッパを離しませんでした」のモデルとなった人物です。
白神源次郎(1869-1894)、享年27歳。
実は白神源次郎は戦闘中、水壕にはまり溺死したのであって、ラッパを離さなかった主は別の木口小平(1872-1894)という人物でした。
この話の主は後に訂正され、修身教科書に「木口小平は死んでもラッパを口から離しませんでした」という美談として掲載されることになります。
大正7年、小学校1年の教科書に採用された木口小平の美談話。(画像はウィキペディアより)
「木口小平は敵の弾に当たりましたが、死んでもラッパを口から離しませんでした」。
『帝国軍人 名誉列伝』の表紙を開けると絵が載っており、「原田重吉 玄武門を開く図」と解説されています。
原田重吉とは明治27年9月、日清戦争での平壌の戦いで、一番乗りで平壌城の玄武門を開いて敵地を突破した軍人です。彼はこれによって当時の英雄となり、金鵄勳章を授与されました。
しかし絵がちょっと見えにくいですね。