鈴木貫太郎記念館 【千葉県野田市】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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  太平洋戦争での戦時内閣最後の首相だった、鈴木貫太郎の終焉の地である野田市の関宿(せきやど)町に行ってきました。ここに彼の遺品などを集めた記念館とお墓があります。



記念館入口 
記念館入口。

交通機関の場合は東武伊勢崎線の東武動物公園駅で降りて、「境車庫」行きのバスに乗り「関宿台町」で下車します。バスの所要時間は20分程度。記念館はバス停のすぐ脇にあります。


展示室  入り口から見た小さな展示室。無料で野田市により運営されています。

実は中は撮影禁止なのですが、「ブログに載せたいのですが」とお訊きしたらOKとなりました。 ありがとうございます。それでは宣伝を・・・。


鈴木貫太郎の写真  鈴木貫太郎の写真(左)と肖像画(右)。

1867 (慶応3)年-1948(昭和23)年。享年81歳。明治から昭和にかけて、数奇な人生を歩んだ海軍軍人でした。


両親  鈴木貫太郎の母、きよ(左)と父、由鉄(右)。

鈴木さんは大阪で生まれ、数年後に関宿の故郷に戻り少年時代をこの地で過ごしました。


海軍時代  海軍兵学校卒業後には日清・日露戦争で活躍しました。 海軍大学校も卒業し、ドイツにも駐在しています。

遺品  「海軍大臣に」という話もあったのですが、「軍人は政治にかかわるべきではない」とのポリシーから断り続け、海軍軍令部長のポストを最後に昭和4年、予備役生活に入りました。

2.26事件  1936(昭和11)年、昭和天皇の侍従長をしていた時、2.26事件に巻き込まれ、反乱軍の青年将校に銃撃されました。

これはその際の状況を描いた絵です。着物姿の鈴木さんが中央にいて、反乱軍に囲まれています。絵を見ると、反乱将校たちより背が高そう。あ、でも絵の主役だから一番高くしたってこともありそうですね。


鈴木タカ夫人 

鈴木タカ夫人。この奥様が傑出した方で、かつて昭和天皇の養育係を務めていました。

2.26で鈴木貫太郎が撃たれた時、彼女が「年寄りなのでとどめは止めてください」と、とっさに機転を利かしたため、貫太郎はあやういところで生き延びました。

 

しかし生き延びたと言っても一時は心肺停止までいっており、助かったのが奇跡でした。


懐中時計  1945(昭和20)年4月、終戦処理内閣になると分かっているので、誰もなりたがらなかった総理大臣のポストに、天皇に懇願され就任します。79歳の時でした。

 

 しかし815日前にポツダム宣言受諾が決まると、それを不服とした陸軍で反乱がおき、鈴木さんはまたもやクーデターに巻き込まれます。(宮城事件)この時は逃げて難を逃れましたが、代わりに自宅が放火されてしまいました。

 

 上の写真の懐中時計は、その焼打ちの際に火の粉をかぶり焼け焦げています。

玉音放送  これは天皇の終戦の詔勅を録音したレコードですね。透け

 

815日にこれをラジオで放送して終戦としました。玉音放送)徹底抗戦の反乱組はこのレコードを奪おうと探し回っていたのですが、うまく隠されていたためとうとう見つかりませでした。

帰郷 

終戦後の昭和21年、鈴木さんは引退して故郷の関宿に帰ってきました。

 

しかし楽隠居をしていたわけではなく、地場産業が無かった関宿に酪農経営を導入するなど、死ぬまで地域貢献に務めました。

鈴木夫妻の写真  激動の昭和を駆け抜けた方々でした。


 墓石  鈴木さん夫妻のお墓も訪れました。

 

記念館から徒歩数分の、實相寺という日蓮宗のお寺にあります。お墓は墓地の一番奥にひっそりと建っていました。

関宿博物館  関宿城跡地から関宿博物館(画面右の天守閣)を望む。博物館の周辺は見晴らしの良い公園となっています。


■鈴木貫太郎記念館
http://www.city.noda.chiba.jp/shisetsu/0023.html