工藤俊作 -敵兵422名を救助した海軍中佐(1) | 太平洋戦争史と心霊世界

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 戦史に詳しい方は彼の名前をご存知かもしれません。敵兵を400名以上救助したことで有名になった工藤俊作・海軍中佐について5回にわたりご紹介します。この話は2006年に一冊の本として出版されるまで、歴史の彼方に埋もれていました。

 

 太平洋戦争が始まった翌年の1942(昭和17)年227日から31日にかけて、インドネシアのジャワ島北部のスラバヤ沖で、日本海軍と英米蘭の連合艦隊により海戦が行われました。 

ジャワ島北部のスラバヤ 


 このうち31日の戦闘で英巡洋艦「エグゼター」英駆逐艦「エンカウンター」が日本海軍により撃沈されました。英乗組員数百名は一日一晩漂流を続け、32日の翌日に偶然その場を通りかかった日本海軍の駆逐艦「雷」(いかづち)に救助されました。

 

 当時の駆逐艦「雷」の乗員は220名、その2倍に当たる英国軍人422名を救助する英断を下したのは、艦長の海軍中佐、工藤俊作でした。

 

 当時「雷」は戦闘行動中であり、敵潜水艦の魚雷攻撃を受ける可能性のある水域を航行していたため、救助活動は極めて危険極まりない行為でした。また乗員を上回る大人数の捕虜を乗艦させるということは、艦で反乱を起こされる危険性がありました。

駆逐艦「雷」 

駆逐艦「雷」(いかづち)



 それにもかかわらず、このような状況下で多数のイギリス兵を救助したことは、世界海軍史でも前例がない出来事と言われています。

 工藤艦長は実際のところ、海上に漂流者を置き去りにして行っても、誰からも非難されることはなかったのです。それほど工藤艦長の振る舞いは驚嘆に値する行為でありました。

 

彼は敵兵を友軍以上に丁重に扱い、後に捕虜として大戦を生き残った英国士官に感謝されることになります。

 

 その一人が英国海軍中尉・サムエル・フォール卿でした。彼は救助された後、インドネシアの捕虜収容所で終戦まで過ごし、戦後は外交官となった人物です。

 

フォール卿は80歳を超え人生の総決算として来日し、工藤元艦長を探しましたが見つからず、当時海自に勤務していた恵隆之介氏に調査を依頼します。

 後にその集大成が恵氏により、『敵兵を救助せよ!』という本として上梓され、世に知られることとなりました。

 

 それでは駆逐艦「雷」(いかづち)の艦長、工藤俊作はどんな人物だったのでしょうか。

工藤俊作 

工藤俊作:1901(明治34)年-1979(昭和54)年、享年78



  工藤俊作は1901(明治34)年に山形県置賜(おきたま)郡屋代(やしろ)村の農家に生まれました。しかし彼の祖父は寺子屋教育を受け士族に負けない程博識で、工藤はこの祖父から多大な影響を受けました。また屋代村も教育熱心で自立心旺盛な地域で、このような環境も工藤にとって良かったようです。

 

 工藤は米沢興譲館中学を経て、海軍兵学校の51期に入学しました。工藤の性格はかなり控えめで、兵学校の同期生からは「実にシャイな男であった」と言われています。しかし大柄な体躯で、39歳の時には身長185センチ、体重は95キロありました。

 

 兵学校卒業後には少尉候補生として練習艦隊に配属されましたが、中学で始めた柔道は強いし体格は大きいしで、誰も工藤にケンカをふっかける者はいませんでした。それでいて温厚な性格なので、「大仏」の異名を取っていました。

 

 1929(昭和4)年に工藤は28歳で、素封家の造り酒屋の娘、増淵かよと挙式を挙げました。夫婦仲は良く、工藤の中学時代の同級生の妻が、当時の二人をこう回想しています。

 

 「ご主人(工藤)は大きなお身体のところ、奥様はおやさしく、人形のように、うつくしくあられ、ほんとうにお似合いのご夫婦でした。傍らでながめておりましても、羨ましい程、奥様を大事になされました。」

 

 工藤夫妻には子どもはありませんでしたが、「この夫人に看取られて生涯を終えただけでも幸せであった」と、後に工藤の甥、七郎兵衛夫妻は語っています。