
1941(昭和16)年12月8日(ハワイ、ワシントンD.C.では12月7日)、真珠湾攻撃により日米で開戦となりましたが、この攻撃前に提出されるはずの最後通牒の手交がワシントンの日本大使館の手違いで攻撃の後となってしまい、卑怯者ということで米国民を激こうさせる原因となりました。
それではもし、その最後通牒の文書が真珠湾攻撃前に完成していたらどうなっていたか?まず最後通牒提出までの経過をみてみます。
【ワシントン時間での最後通牒の手交の経過】
●12月07日、13:00
日本の最後通牒は野村駐米大使を通じて真珠湾攻撃の30分前の13時にコーデル・ハル米国務長官に渡されることになっていた。
●12月07日、13:25頃
日本、ハワイでの真珠湾攻撃を開始
●12月07日、13:50
最後通牒の浄書が完成。
●12月07日、14:05
野村駐米大使と来栖特派大使、通告文を携え国務省に到着。
●12月07日、14:20
両大使、15分待たされた後、ハル国務長官と会見。
この時点で既にルーズベルト大統領もハルも、日本外務省の暗号電報を解読しており、日本がワシントン時間の午後1時に最後通牒を手交しに来るのを知っていました。
従って最後通牒が1時間遅れということは、ルーズベルトやハルにとって、米国民を対日戦に駆り立てるこの上ない口実となったのでした。
真珠湾攻撃が開始されてから45分後の14時5分にやっと野村・来栖両大使はアメリカ国務省へ到着しました。
両大使は至急面会を求めましたが、そこでハルと会見するまでに15分間、最後通牒の提出時刻をより遅らせるための意図で故意に待たされ、14時20分にようやくハルと顔をあわせました。
野村・来栖両大使から最後通告を受け取ったハル国務長官は言いました。
「自分の公職生活50年の間、いまだかつて、このような恥ずべき偽りと歪曲とに充たされた文書を見たことがない」
野村・来栖は一言の言葉も無く、引き下がるしかありませんでした。
それでは定刻通りの13時に、日本側から最後通牒を提出されていたらどうなったか。これは憶測ですが、13時に日本大使が国務省に到着したとします。真珠湾攻撃は13時25分ごろから始まったので、その時間差は25分あまりです。
もしかするとハルは、野村・来栖両大使を25分以上待たせて、真珠湾攻撃が始まってから最後通告を受け取るというような姑息な方法を行ったかもしれません。これでやはり日本は攻撃後に最後通告したので卑怯だ、と言えます。
また最後通牒がたとえ攻撃前に手交されていたとしても、アメリカはやはり何らかのプロパガンダを使って「卑怯な奇襲」と程度の差こそあれ、米国民を焚きつけただろうとも言われています。
当時は現代以上に人種差別がひどい時代ですから、最後通牒の遅れだけでなく、黄色人種が攻撃してきたというだけで、米国民は生意気だと容易に逆上したのではないかと想像できるでしょう。