伊藤整一(10)-その限界と時代の翻弄 | 太平洋戦争史と心霊世界

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伊藤整一 

伊藤整一。戦死後、大将に特進した。



もし伊藤長官が連合艦隊司令部からの沖縄特攻出撃命令を拒否し、職を賭して反対したならば、事態はどう展開したかという疑問も現在に至るまで提起されています。それでも連合艦隊司令部は押し切って作戦を決行したのでしょうか。

 

 しかし伊藤長官はかつて軍令部次長として、多くの将兵に出撃を命じてきた責任がありました。伊藤はこの特攻の機会を逃せば、のちに名誉の戦死によって部下の死に応える道はほとんど残されていませんでした。

 

 さらに万一生き残った場合も、開戦以来、海軍の基本作戦に参画してきた職務上、戦勝国側から罪を問われる運命は免れなかったと考えられています。実際に伊藤とコンビを組んできた永野修身軍令部総長は、A級戦犯に問われ後に獄死しています。


戦艦大和上で整列 

 伊藤整一は評伝の中でも高邁な品格ある海軍軍人であったとみなされています。しかし彼は海軍創始者の勝海舟や、山本権兵衛のような歴史の流れを変えた軍人ではなく、組織に逆らわず、その中で正道を通す人物でした。

 

 しかしこれほど人間的に評価される人物でも、日米開戦や3千人以上の犠牲者を出した沖縄水上特攻を阻止することはできませんでした。

 

また彼の性格から鑑みて、個々の問題には真摯に対応していたにもかかわらず、その最期に待っていたのは将兵を連れた特攻による戦死、または戦犯。どちらを向いても選択肢のない袋小路の世界でした。

 

 以上のように振り返ってみると、彼の人生とは一体何だったのでしょうか。

 

結局そこには組織という枠からの逸脱を許さなかった伊藤整一であるがゆえに、乗り越えられなかった限界がありました。

 

また彼のような人格を持ってしても抗うことのできない、大きな時代の翻弄というものが存在していたのかもしれません。

 

毎年47日、伊藤整一の命日には墓前祭が開催されています。年々その人数は少なくなっていますが、高級軍人としてはきわめて珍しいことに、墓の前に集う大半の出席者は旧海軍の下士官兵たちだそうです。

 

 以上、最後までご清覧いただきありがとうございました。

 

                     <完>


伊藤整一の墓 

福岡県大牟田市の生家近くにある伊藤整一の墓。旭日旗が掲揚されている。