山本五十六の生涯(7)-砲術から航空畑への転身 | 太平洋戦争史と心霊世界

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山本大佐
霞ヶ浦航空隊、教頭兼副長時代の山本大佐


アメリカから帰国後、38歳の山本は1921(大正10)年から1923(大正12)年の半ばまで海軍大学校教官を務めますが、その講義の中で「海軍軍備は航空第一主義でなければならない」と早くも論じています。

 

1924(大正13)年3月、9か月の欧米視察旅行が終わると、山本に打診されたポストは海軍省の副官でした。しかし山本は航空関連のポストを強く希望し、まもなく霞ヶ浦航空隊付となりました。

 

「付(づき)」と言う身分は、単位そこに籍を置くだけで机も椅子もなく、部下もいないことが多く、次のポストへ付くための臨時的処置で、山本は8カ月間この「付」状態で辛抱強く勤務していました。

 

山本が航空隊の中にポストを得ようとするのは、よそ者が無理矢理に航空隊の中にねじ込んでくるようなものでした。山本の航空畑への闖入は少ないポストをめぐる人事上の混乱を巻き起こし、その結果山本に代わってポストを追われる者もでてきました。

 

 山本はこれまでの砲術のキャリアを続けていれば、山本の経歴からして海軍省か軍令部、或いは艦隊の重要なポストに就くことも可能でした。

 しかし航空に変われば今までのキャリアは吹っ飛び、昇進が大幅に遅れる可能性もありました。彼にとっても
41歳での航空畑への転身は、人生最大の賭けだったと言っても過言ではないでしょう。

イタリア飛行艇 霞ヶ浦航空隊の教頭時代、イタリアのサボイア飛行艇が訪日、霞ヶ浦に着水した。右から2番目が山本大佐。(大正14926日)


1924(大正13)年12月、山本はようやく霞ヶ浦航空隊の副長として赴任することになります。しかし航空設備の必要性は説いていましたが、飛行機の知識は無かったため、最初パイロットたちは飛行機に素人の山本大佐を馬鹿にしきっていました。

 

山本副長は月のうち半分は隊内に泊まり込み、航空機や航空に関する猛烈な勉強をするとともに、自らも飛行機の操縦訓練を始め、とうとう練習機なら単独飛行できるところまで漕ぎつけました。

 

しかし山本の関心は飛行機をどう操縦するかではなく、もっと大きなシステムの問題で、航空隊を海軍の中に位置付け、海戦あるいは戦闘全般において航空隊が担当する役割を構築することでした。

 

山本副長の最も評価された業績は、勘に頼る職人的操縦をやめさせ、誰でも操縦できる普遍的な訓練方式を導入したことでした。それ以前は空母への着艦にしても天才的技量が必要とされ、これが可能なパイロットは百人中、たったの数人という状況でした。

水上滑走 14式水上偵察機の編隊水上滑走


山本の主張にもとづき訓練方法の見直しと訓練の強化が行われましたが、訓練が激しさを増すにつれ事故も多くなり、相当の死者もでるようになりましたが、山本が手を緩めることはありませんでした。のちに山本の命で訓練中に亡くなった犠牲者たちの神社が建立されています。

 

 こうして山本副長は霞ヶ浦航空隊の隊員たちの人心を掴んでゆき、13ヶ月後、アメリカの日本大使館付武官となります。

 

彼の横浜出発の際は、霞ヶ浦航空隊は編隊を組んで元副長の乗船している「天洋丸」上空に飛来し、爆撃訓練を演じて別れを惜しんだと言われています。

 下の写真はその光景で、停泊しているのが「天洋丸」で、その左上空に見えるのが飛来した飛行機です。

天洋丸