
「アメリカ駐在時代、セントラルパークなどに出かけ、得意のカメラ撮影で、米国人の生活やありさまを写し取っている。被写体の多くは、女性と子供たちであった。」
山本には結婚後6カ月を経ずしてアメリカ駐在の辞令が下りました。1919(大正8)年4月に横浜港を単身で出港し、約2年間、駐在員として英語習得のため、ボストンのハーバード大学の語学研修に通いました。
彼はこの留学中にアメリカ中をあちこち旅行して見聞を広めており、デトロイトで自動車工場を見学し、テキサスをはじめ各地の油田を視察し、メキシコまで足を延ばしています。ここに山本らしいエピソードがあります。
メキシコシティの日本大使館を訪れたところ、駐在武官の山田健三少佐は山本と同郷人で、日露戦争時に山本の兄と戦友であったことがわかり、いっぺんに親しくなりました。ところが山田が急遽帰国することになったが旅費が足りず、その窮状を放置できなかった山本は、借金していた自前の旅費を山田に提供してしまいました。
そのため以後はパンと水とバナナのみで貧乏旅行を続けなければならず、乞食同然の生活ぶりがメキシコ政府の目にとまり、日本の亡命者ではないかとマークされる事態にまで発展してしまいました。

また山本は飛行機の発達に注目し、留学時の研究テーマに選びました。山本が飛行機の将来性、飛行機の燃料となる石油への着目は、当時の山本の指導上官であり、米国駐在武官であった上田良武(よしたけ)大佐の影響を受けたと考えられています。
上田は帰国後、航空機試験所長など航空畑を歴任し、海軍における航空機開発の先頭に立ち続けた人物でした。恐らく山本が飛行機について本格的な話を聞かされたのは上田が最初であり、山本の飛行機への興味は、上田の山本への指導抜きには語れないとされています。
山本は石炭から石油へのエネルギーの転換、アメリカの発展する工業力を見聞し、1921(大正10)年5月に日本への帰国の途につきました。