1918(大正7)年、山本は35歳で結婚します。相手の父は旧会津藩士で当時牧場を経営していた三橋康守で、結婚相手はその三女で23歳の三橋礼子でした。

三橋礼子と見合いし結婚する
山本が結婚を承諾したのは山本家の名跡を維持する責任感が大きかったためと推測されています。山本は山本家の関係者から結婚話を二、三度勧められており、山本の社会的立場が独身を許さなくなっていたと言えます。
山本は会津の三橋家に赴き、見合いをして即決しましたが、その際褌(ふんどし)一つになって「日進」艦上で受けた火傷と指のない手を見せながら、こんな体でよいかと何度も念押ししたと言います。
この肉体上の欠損も結婚が遅れた一因であったと考えられています。
山本と礼子夫人の間には二男二女がもうけられました。山本は海軍軍人の常として家では不在がちでしたが、子煩悩で帰宅した時にはよく子供と遊んだりしていました。
家の事は礼子夫人に任せきりで、彼女は十分その責任を担い、よくできた人と評価されています。

長男、山本義正氏
この夫人への評価が気になるのですが、山本には愛人がいましたが、彼女は夫の浮気を知っていたとしたら、それを黙認していたのでしょうか。
この時代のことですから、彼女も夫の愛人を容認していた可能性があります。
もし夫人がその事実を知っていても我慢していたとしたら、彼女への「よくできた人」という表現は、「浮気の事実に目をつぶり、夫を非難しない、男性にとって都合のよい妻」という部分を含めて評価しているようにも聞こえます。
これを書いている著者は全員男性なので、この表現はいま一つ釈然としないものがあります。
山本の死後、残された礼子夫人は戦後苦しい生活を送ったようです。見かねた山本の元部下で参謀だった黒島亀人が、自ら常務をしている会社に夫人を副社長として迎え経済的に援助しました。