
日露戦争出征時の五十六少尉
兵学校を卒業した高野五十六は1905(明治38)年、装甲巡洋艦「日進」に乗り組み、日露戦争に参加します。
高野の任務は艦長付で、前艦橋に立って戦闘報告を記録する事でしたがこの時負傷し、右下腿部に大火傷を負い、左手指二本を失う重症でした。彼は横須賀海軍病院で3カ月の療養生活を送り、その間に海軍少尉に任官しています。
(ジパング・15巻)
その後怪我から回復した高野は18カ月間巡洋艦「須磨(すま)」、戦艦「鹿島」、海防艦「見島(みしま)」、駆逐艦「陽炎(かげろう)」の艦艇勤務を経験します。これが一通り終了すると、今度は術科教育を受けることになります。
高野五十六は1907(明治40)年に海軍砲術学校普通科で16カ月、次に海軍水雷学校普通科で4カ月の教育を受けました。
この頃の高野は一切酒を飲まず、収入の大半を両親へ仕送りし、親戚縁者の学費等にあてていたと記録にあり、遊びにお金を回す余裕もなかったし、遊ぶつもりもなかっただろうと言われています。
日本海海戦で負傷して療養後、長岡に帰省した折の記念撮影。左が五十六。右が姪の京さん、後ろに立っているのが京さんの弟・気次郎さん(五十六の甥)
術科教育修了後は再度の艦艇勤務を経て、遠洋航海に出ます。当時の高野の上官であった鈴木貫太郎は、高野を次のように評しています。
「若き大尉分隊長として候補生の指導官に任ぜられ、別段目立つところもないが、寡黙で最も真面目に勤務にあたり、不言実行をもって候補生を指導している。時には指導者会議でも容易に発言しないが、一旦口を開けば論旨明晰・主張断固で意見は採用されることが多く、熟慮断行の性格がうかがわれる」と述べています。