
スイス山岳地帯の防備
ジパング11巻の欧州・スイス編へ戻ります。ちょっと当時のスイスの状況を解説します。
草加少佐が訪れた1942(昭和17)年暮れのヨーロッパは、ナチスドイツが中央ヨーロッパ、東欧、北欧を占領し、絶対中立を掲げるスイスはヨーロッパ大陸の中でもまさに陸の孤島でした。(地図参照)
スイスはヨーロッパの南北をつなぐトンネルを所有しており、ドイツ・イタリア枢軸国にとっても、地理的に重要な位置を占めていました。
ドイツは中立地帯であるスイスをも占領しようとねらっていましたが、スイスのアンリ・ギザン将軍がこれに対し徹底抗戦を主張し、ザンクト・ゴットハルトとシンプロンの二大トンネルを爆破すると脅したので、ヒトラーはスイス占領をあきらめました。
こうしてスイスは中立とはいえ危うい均衡を保っていたのですが、戦時中は枢軸国・連合国の双方とも貿易を行っていました。
中でもドイツは大戦前から交易さかんな貿易相手国だったこともあり、同国と緊密な経済関係を保っていました。大戦中期において、スイスの輸出高の3分の2は枢軸国に対してのもので、ドイツに多様な武器を輸出していました。
このように大戦中はドイツ寄りの経済活動を行っていたため、連合国側からはスイスは親ドイツ国家とみなされていました。
戦時のスイスは以上のような状況だったので、ナチスから逃れてくるユダヤ人亡命の受け入れにも消極的でした。これはもともと、スイス社会に根強いユダヤ人感情があったためでもありました。
しかし中には、ユダヤ人受け入れを主張する議員や救援活動家もいました。実際には数万人のユダヤ人を助けた外交官、カール・ルッツなどの存在もあります。
戦時中のスイスは30万人の難民を滞在させ、6万人の児童の疎開先となりました。しかしスイス政府はビザを持たないユダヤ人難民は追い返しており、多くが国境で入国を拒否され、その数は二万人を超えたと言われています。