『惑星大戦争』は1977年12月17日に全国東宝邦画系劇場で上映された映画です。
説明するまでもありませんが、1977年5月25日にアメリカで劇場公開された『スター・ウォーズ』、そしてテレビでの再放送及び1977年8月6日に劇場版が公開された『宇宙戦艦ヤマト』を切欠としたSF映画ブームに呼応して東宝(東宝映画/東宝映像)が製作した作品でした。
口の悪い映画ファンからは、東映の『宇宙からのメッセージ』と共に“お笑い宇宙戦争映画”などと揶揄される事もある一方、アニメーション映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』でBGMが使用された事で、非リアルタイム世代からも注目された映画です。
上記の通り、映画の公開は1977年12月17日。しかしクランクインが同年10月という、(1978年の)正月映画としてはギリギリのスケジュール、正に撮って出し状態の作品でした。
『日本沈没』『エスパイ』の小松左京に原作の依頼をしたものの、あまりにタイトなスケジュール故に断られてしまい、プロデューサーの田中友幸が神宮寺八郎の別名で「海底軍艦を宇宙に飛ばす」という案を出し製作されたと言われていますが、元々これは1975年正月映画(1974年12月公開)以降、東宝の新春第一弾映画は山口百恵&三浦友和主演作、通称“百友映画”の公開が決まっており、その併映作品として製作された為に突貫工事的スケジュールが組まれた訳です。
ここで“百友映画”と併映作品を簡単に記しておきます。
1974年12月28日公開
『伊豆の踊子』
『エスパイ』
『伊豆の踊子』は川端康成の原作で6度目の映画化。
『エスパイ』は小松左京の原作で、同年のユリ・ゲラー来日を切欠にした超能力ブームに呼応しての映画化。この時点では“百友映画”は興行的には未知数であり、『エスパイ』は前年の『日本沈没』に続く小松左京作品の映画化という事もあり、この2本立ては両A面といった印象です。
1975年4月26日公開
『潮騒』
『お姐ちゃんお手やわからに』
『潮騒』は三島由紀夫の原作で4度目の映画化。『お姐ちゃんお手やわからに』はNTV系のバラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』を切欠にした和田アキ子の“ゴッド姉ちゃん”人気に呼応して製作された作品。和田アキ子と山口百恵が同じホリプロの所属という事もあって実現した2本立て。山口百恵が本人役でカメオ出演しています。(劇中では多々良純から「エエのぅ〜山口ひゃく恵は」と言われていましたが)
正月映画に続いてG.W.映画という事で早くも”百友映画”が東宝の看板に成りつつありました。
1975年8月2日公開
『花の高2トリオ 初恋時代』
『青い山脈』
『花の高2トリオ 初恋時代』は“百友映画”ではなく、デビュー時に“花の中3トリオ”と並び称された山口百恵、桜田淳子、森昌子の初共演映画。
『青い山脈』は石坂洋次郎の原作で、4度目の映画化。主演は三浦友和&片平なぎさ。
共演作品ではないものの、山口百恵&三浦友和主演作品が東宝の正月興行、G.W興行に続き、夏興行でも公開される様になりました。
1975年12月20日公開
『絶唱』
『裸足のブルージン』
『絶唱』は大江賢次の原作で3度目の映画化。
『裸足のブルージン』はホリ企画の製作で和田アキ子主演作品。同年のG.W.の2本立てが好評だった事と、東宝は外部提携に積極的であった為に再度のカップリングとなった様です。2年連続で“百友映画”が東宝の正月映画となり、看板作品として定着しました。
1976年4月24日公開
『エデンの海』
『あいつと私』
『エデンの海』は若杉慧の原作で3度目の映画化。この作品は“百友映画”ではなく、山口百恵主演ではありますが共演は南篠豊。その為、ポスターには〈山口百恵文芸シリーズ第4弾〉と表記があります。
『あいつと私』は石坂洋次郎の原作で2度目の映画化。こちらは三浦友和&檀ふみ主演作品。前年の夏興行に続き“百恵&友和 共演作”ではなく“百恵&友和 単独主演作2本立て”となった訳ですが、2人の共演が無い作品はファンからは不評だった様で、この編成は本番組で終了しています。
1976年7月31日公開
『風立ちぬ』
『どんぐりっ子』
『風立ちぬ』は堀辰雄の原作で2度目の映画化。
『どんぐりっ子』は1955年の日活映画『女中ッ子』の再映画化。主演はホリプロ所属の森昌子。製作はホリ企画。2年連続で東宝は書き入れ時となる、正月、G.W.、夏の興行は全て山口百恵&三浦友和主演作品(単独主演作品を含む)の公開となり、“百友映画”が東宝のラインナップの柱になりました。
1976年12月25日公開
『春琴抄』
『恋の空中ぶらんこ』
『春琴抄』は谷崎潤一郎の原作で5度目の映画化。
『恋の空中ぶらんこ』はジェームス三木原案の映画オリジナル作品。キャスト表では5番目にクレジットされている林寛子がポスター上ではトップに表記されており、当時テレビを中心に人気上昇中だった林寛子にフォーカスを当てた作品でした。
1977年7月30日公開
『泥だらけの純情』
『HOUSE ハウス』
『泥だらけの純情』は藤原審爾の原作で2度目の映画化。
『HOUSE ハウス』はCMディレクターとして名を馳せていた大林宣彦の映画監督デビュー作。当時の東宝の企画部長だった松岡功が、その内容に困惑しながらも製作にOKを出した作品。東宝としても当初はどの様にラインナップに組み込むか悩んだ作品だった様で、一時期は『ゴジラ』シリーズに替わり「東宝チャンピオンまつり」枠での公開も検討された程だったとか。結果的には東宝ラインナップの柱であった“百友映画”と新人監督による”ニューウェーブ作品“とのカップリングが功を奏する形になりました。
1977年12月17日公開
『霧の旗』
『惑星大戦争』
『霧の旗』は松本清張の原作で2度目の映画化。
『惑星大戦争』は上記の通り、SF映画ブームに呼応した和製『スター・ウォーズ』的作品。特撮映画を得意としていた東宝としては、SF映画ブームを見過ごす訳にはいかなかったのです。
松本清張作品とSFのカップリングは微妙だったと思いますが……
1978年7月22日公開
『ふりむけば愛』
『お嫁にいきます』
『ふりむけば愛』はジェームス三木原案による“百友映画”初の映画オリジナル作品。
『お嫁にいきます』は”デビュー7周年記念”と銘打った森昌子主演作品。久し振りに東宝=ホリ企画提携による2本立て興行となりました。
1978年12月16日公開
『炎の舞』
『ピンク・レディーの活動大写真』
『炎の舞』は加茂菖子の原作で2度目の映画化。
『ピンク・レディーの活動大写真』は、当時人気絶頂のアイドルだったピンク・レディー唯一の長篇主演映画。彼女らの過密スケジュールの合間を縫う様に製作する事が前提であった為に、オムニバス形式になっており、後のMTVを思わせる演出も盛り込まれた作品に仕上がっています。
1979年8月4日公開
『ホワイト・ラブ』
『トラブルマン 笑うと殺すゾ!』
『ホワイト・ラブ』は一般公募のシナリオを大幅に改稿して製作されたオリジナル作品。
『トラブルマン 笑うと殺すゾ!』は、当時の日本では香港映画『Mr.BOO! ミスター・ブー』、アメリカ映画『アニマル・ハウス』などコメディ映画がヒットしていた為、それに呼応して製作された作品。従来の喜劇映画ではなく新感覚のコメディ映画が求められた事もあり、監督には新人の山下賢章が抜擢されています。本作のポスター・イラストは『Mr.BOO! ミスター・ブー』のポスター・イラストに酷似していますが、同じHIRO OHTAが手掛けたのでしょうか?
1979年12月22日公開
『天使を誘惑』
『関白宣言』
『天使を誘惑』は高橋三千綱の原作の映画化。
『関白宣言』は同年にヒットした さだまさし歌唱の曲を元にした作品。さだまさし主演を予定していたのですが、さだまさし主演『翔べ!イカロスの翼』との撮影スケジュール調整が出来ず、代わって実弟の さだ繁理が主演しました。
1980年12月6日東京先行公開
1980年12月20日全国公開
『古都』
『古都』は川端康成の原作で2度目の映画化。
山口百恵は、前年の10月20日に熱愛宣言、翌春の3月7日に結婚&引退宣言をしており、1980年は引退に向けてのレコード発売やライブ・ツアー等があった為に映画主演は1本だけになりました。1980年10月5日の日本武道館公演で事実上の引退をしている為、映画『古都』は引退後の公開となりました。山口百恵最後の主演映画を盛り上げる為に、併映作品はありませんでした。
“百友映画”と併映作品を簡単に説明しましたが、邦画黄金期の2本立てのプログラムピクチャーとしてのスタイルが継承されている編成でした。文芸作品のリメイクを主とした”百友映画“が興行の柱として定着した後は、併映作品は“百友映画”との興行上の相乗効果を期待されており……強いて言えば客層が割れない、”百友映画”の妨げにならない作品が求められていたのです。「百友映画」➡「併映作品」という順番で企画されるので、ホリ企画との提携作品や、その時々の流行に呼応した作品が多く、其々が短期間で企画製作されているのも、その為です。
それでも……『霧の旗』と『惑星大戦争』は、その内容故に異色の組み合わせだったと思われます。
当時発売された『惑星大戦争』のパンフレット(『霧の旗』と併録)には“本作は『地球防衛軍』『宇宙大戦争』『妖星ゴラス』の宇宙三部作に続く作品”との記述があります。『惑星大戦争』を和製『スター・ウォーズ』として捉えると、その落差故に“お笑い宇宙戦争映画”なんていう声が出て来てしまうのかもしれませんが、往年の東宝の空想科学映画の後継作品と捉えれば、相応に見応えのある作品です。(製作費7億円との記述もありますが、流石に少々盛り過ぎではないかと……)
実際、当時の私は東宝が『メカゴジラの逆襲』以来、2年9ヶ月ぶりにSF特撮映画を公開してくれると、大喜びで東宝の劇場に(父親に頼んで)駆けつけ、充分に満足したものです。
そう言えば……その劇場では『霧の旗』を見に来たと思しき二十歳代の二人組みの女性客と居合わせましたが、その御二人は『惑星大戦争』も楽しんでいる様に見受けられました。
一方で、当時の『惑星大戦争』のパブリシティに関しては、かなりいい加減なものがありました。例えば……
某出版社の学年誌に掲載された『惑星大戦争』のイラスト(ポスターにも使用されていたもの)は、何と左に90度傾いたものでした。どうやら誌面構成を担当した者がSFに疎く、宇宙防衛艦轟天のデザインを正しく認識出来ず“SF映画=宇宙ロケット”という一昔前の感覚の持ち主だった事から起きた珍事だった様です。(つまり轟天の艦底部分が流線型である為に、それがロケットの上面だと思い込んだ訳です。恐らく誌面構成の担当者は「下(実際には轟天の艦橋や砲塔)がゴチャゴチャしたロケットだなぁ」と思っていたのでしょう)
また同じ『惑星大戦争』のイラストを180度逆に掲載している別の雑誌もありました。やはり誌面構成担当者が“SF映画=宇宙ロケット”という認識しかなかった為に、同様のミスをしてしまった訳です。
更に某週刊誌の記事では、宇宙防衛艦轟天を地球侵略を企む宇宙人のUFOとして解説。間違いにも程があるというか、雑誌編集者がSF映画に何の関心も持っていなかった事がよく解ります。
そんな時期に『スター・ウォーズ』『宇宙戦艦ヤマト』人気に便乗したとはいえ、往年の空想科学映画のスタイルで新作のSF映画を創り出した活動屋魂は評価されても良い筈で、それが後の『シン・ゴジラ』『ゴジラ −1.0』へと繋がっていく事にもなるのです。
当時の新聞広告(東海地区)