時々再見したくなる作品の1本。

劇場で鑑賞するのは2014年の「第2回 新・午前十時の映画祭」以来なので、約10年ぶり。

原作は松本清張。小説は1960年〜1961年に読売新聞夕刊に連載された後、光文社カッパノベルスから書籍化され発売されました。
松本清張は自身の小説『張り込み』『ゼロの焦点』が松竹で野村芳太郎 監督/橋本忍 脚本で映画化され、その映画が評判となった事を受け、野村&橋本コンビによる『砂の器』の映画化を希望します。
ただ小説『砂の器』は中々厄介な作品でして……映画ではバッサリとカットされていますが、超音波による殺人の描写があります。
小説の連載開始当時、医療の世界で超音波メスが実用化され始めており、松本清張は強い関心を示し「超音波で殺人も可能ではないか」と考えて作品に取り入れたとの事ですが唐突感は否めず、円谷プロ製作のTVドラマ『怪奇大作戦』を連想してしまいます。
実際、映画化に際して脚本執筆が難儀したと言われています。

原作、映画共に『砂の器』を語る際に指摘されるのは、和賀英良の三木謙一殺害の動機が判然としない事です。一応、和賀の戸籍改竄と其処に至るまでの過去が三木によって公になってしまう事を恐れたから……という事になっていますが、う〜ん。三木ほどの人物が軽々しく和賀の過去を吹聴するとは思えませんし、醜聞となるのを恐れるなら、愛人(原作では成瀬リエ子。映画では高木理恵子)の存在の方が問題では?

一方で、映画『砂の器』を語る時に絶対に外せないのが、クライマックスで3つの物語が交錯する描写です。
和賀英良(演:加藤剛)の演奏が始まる。それと同時に少年時代の和賀英良=本浦秀夫(演:春田和秀)と父親の本浦千代吉(演:加藤嘉)の回想が始まる。更に警視庁の今西栄太郎 警部補(演:丹波哲郎)が捜査会議に於いて和賀英良への逮捕状を請求し、事件の真相を語り始める。
演奏と回想では和賀が作曲(実際の作曲は芥川也寸志)した「宿命」がフルコーラスで流れ、台詞はありません。
原作者の松本清張が「小説では幾つ言葉を並べても表現出来ない事を、映像は瞬間で表現してしまう」と絶賛し、事前に脚本を読み橋本忍に苦言を呈していた黒澤明でさえも何も言えなかったとされている、日本映画史上屈指の名シーンですが、実はこの描写の中に和賀の三木殺害の真相があった……事に、今回やっと気付く事が出来ました。

和賀にとって、あの場で演奏した曲「宿命」は、正に彼と彼の父親との宿命であり、絆の全てが込められた曲であった訳です。愛人の高木理恵子(演:島田陽子)が子供を産みたいと懇願しても決して聞き入れ様としなかったのも、和賀にとって自分を含めた親子は音楽の中にしか存在していなかったからです。今西警部補はそれを理解しており、若い刑事の吉村弘(演:森田健作)に「彼(和賀)は、もう音楽の中でしか父親に遭う事が出来ない」と語ります。
しかし、和賀の前に数十年ぶりに姿を現した元警察官の三木賢一(演:緒形拳)は「お前の親父は生きている」「実は俺はお前の親父と文通をしていた」「お前の親父は余命僅かだ」「一度会うべきだ」「俺はお前の首に縄付けてでも引っ張っていく」と言い切ります。
和賀にとって三木は自分と父親を引き裂いた張本人でもあります。(それはライ病の父親を医療施設に入所させ治療させる為であり、三木は1人残される秀夫=和賀の養父になる決意もした訳ですが……)
その三木が今度は父親に会わせると言う。それは三木にとっては人として当たり前の情であっても、和賀にとっては自身が創り上げた音楽=自身と父親の全てを再び破壊する行為に等しかった……

この解釈が正しいかどうかは判りません。また10年後に再見したら、別の発見がある……かもしれません。


『砂の器』
1974年 日本
松竹/橋本プロダクション
【出演】
丹波哲郎
森田健作
加藤剛
島田陽子
山口果林
緒形拳
加藤嘉
春田和秀
稲葉義男
佐分利信
【脚本】
橋本忍
山田洋次
【監督】
野村芳太郎