1977年、和製恐竜映画が2作品公開されています。


『恐竜・怪鳥の伝説』

『極底探険船ポーラーボーラ』


当時は世界的な恐竜ブーム……だった訳ではありません。1975年公開『JAWS ジョーズ』が大ヒットした事に始まる“動物パニック映画”人気と、1976年公開『キングコング』を切欠とする“ロスト・ワールド映画”への注目に、呼応する形で製作された映画です。


更に……『恐竜・怪鳥の伝説』『極底探険船ポーラーボーラ』以前に、日英合作映画『ネッシー』の企画が存在していました。


〈ネッシー〉

『ネッシー』の企画は東宝が『メカゴジラの逆襲』をもって一旦「ゴジラシリーズ」を終了させた1975年の後半、若しくは1976年に入ってから立ち上げたものと思われます。つまり『JAWS ジョーズ』がアメリカで大ヒットし、『キングコング』のリメイク版の製作が話題になっていた時期です。


この『ネッシー』は、『ゴジラ』で知られる日本の東宝と『吸血鬼ドラキュラ』で知られるイギリスのハマー・フィルムの合作という、世界的スケールの企画でした。

製作はデヴィッド・フロスト/ユアン・ロイド/マイケル・カレラス/田中友幸。特技監督は中野昭慶。

監督は当初、『雨の午後の降霊祭』のブライアン・フォーブスと告知されていましたが、やがて『八十日間世界一周』で知られるマイケル・アンダーソンに交替しています。


私個人の体験ですが、1977年3月の『キングコング対ゴジラ』再映版と『巨人軍物語 進め!!栄光へ』をメインとした〈東宝チャンピオンまつり〉上映の頃に、東宝邦画系劇場に『ネッシー』のスピード版ポスターが貼られていたのを記憶しています。更に「王選手714号ホームランボールでネス湖ご招待」と書かれたポスターの掲示もありました。何故、王貞治 選手とネッシー?

1977年は、プロ野球 読売ジャイアンツの王貞治 選手によるベーブ・ルースと並ぶ世界歴代2位となる本塁打記録 通算714本(それを越える事も)が期待されていました。そして『ネッシー』の製作費が714万ドルとされていたから……という事だったのですが、少々強引なタイアップでした。


当初は「1977年7月・全世界一斉公開」と告知されていた『ネッシー』でしたが、この企画は幻となります。

1973年のオイルショックによる経済混乱でイギリスのポンドが減額。イギリスは有効な経済対策を打ち出す事が出来ず、減額が続くポンドは1976年3月には対米ドルで2ドルを割り込んでしまいます。その後も減額は続き、同年11月には前年3月に比べ35%減の事態に陥ってしまいます。イギリスは通貨防衛の外貨が枯渇状態(最終的にはIMFに緊急支援を要請)となり、「貴重な外貨を怪獣映画製作に注ぎ込む事は不適当」とエリザベス女王が発言し、『ネッシー』の企画は中止になったとされています。中野昭慶 特技監督はインタビューで「エリザベス女王を怨んだよ(笑)」と答えています。

つまり私がスピード版ポスターを見た1977年3月には、ハマー・フィルムは資金繰りが悪化していた訳です。それでも企画自体は消滅していなかったのか、1977年末に東宝が発表した「1978年ラインナップ」には『ネッシー』が掲載されていました。しかし、この時は監督名の記載はありませんでした。


〈恐竜・怪鳥の伝説〉

東映はアメリカ映画『JAWS ジョーズ』の大ヒットに便乗し、千葉真一 主演による『海魔神』なる企画を立ち上げます。これは“人喰い鮫”ならぬ“人喰い巨大海蛇”に妻子を殺害された主人公を描いた内容だった様です。しかし何故か企画は中止になり、替わって『恐竜・怪鳥の伝説』の企画が浮上しました。


当時の東映は実録ヤクザ映画やポルノ映画、カラテ映画が頭打ち状態になりつつありました。その中で製作された大作『新幹線大爆破』は国内興行こそ惨敗だったのですが海外で大ヒットします。そこで東映は新たな路線としてハリウッド調の娯楽作品の製作に乗り出します。『JAWS ジョーズ』の大ヒットで動物パニック映画の製作を進め様としていた矢先に『キングコング』のリメイクが話題になり始めたので、ロストワールド映画に企画を変更した……という事でしょうか。


当初はタイトル通り恐竜と始祖鳥が登場する予定でしたが、恐竜が首長竜に、始祖鳥が翼竜へと変更になりました。首長竜の登場となった背景としては、1972年~1975年にかけて北海道釧路湖で首長竜に似た巨大生物?の目撃情報が寄せられ、「ネス湖のネッシー」ならぬ「釧路湖のクッシー」として話題となり、田中星児 歌唱の「ネッシーとクッシー」なるレコードが発売されたり、雑誌やTVでの特集、釧路湖への観光客が増える等、ちょっとした「クッシー」ブームがあり、それを取り込んだものと推察します。

或いは東宝/ハマー・フィルムの『ネッシー』に便乗、というか先駆けて……という思惑があったのかもしれません。

当時は首長竜も恐竜と呼称される事が多く、怪鳥も怪獣と同義語と捉えられていた節もあった事から、タイトルの変更は無かったものと思われます。(タイトルを考えたのは岡田茂 東映社長と言われています)


『恐竜・怪鳥の伝説』は1977年4月29日に全国の東映邦画系劇場で公開されました。併映は「週刊少年チャンピオン」連載の水島新司 原作の野球漫画を映画化した『ドカベン』と短編映画『池沢さとしと世界のスーパーカー』。

“野球帽をかぶって御来場のお子さまは各劇場所定の割引料金でご入場になれます”との告知があり、観客のターゲットとしては〈東映まんがまつり〉の観客層に寄せた印象があります。

『恐竜・怪鳥の伝説』の国内興行は不発だったとされていますが、海外では好評で特にソビエトでは観客動員4870万人の大ヒットとなっています。

また、1980年頃に私が太秦映画村を訪れた際、撮影で使用されたと思しきプレシオサウルスとランフォリンクスのプロップが展示してあり、この二次使用も含めれば東映としては元は取ったのではないでしょうか。(加えて、太秦映画村の江戸の港町に現れる恐竜のアトラクションのアイディアは、『恐竜・怪鳥の伝説』に在ったのかもしれません)


〈極底探険船ポーラーボーラ〉

アメリカのランキン=バス ・プロダクションと日本の円谷プロダクションによる日米合作映画。

ランキン=バス・プロダクションとは、アーサー・ランキン・ジュニアとジュール・バスが設立した映画製作プロダクションです。元々2人はアメリカのテレビ番組用のアニメーション作品を手掛けるプロデューサーでした。

2人は、1966年から放送された日米合作(東映動画&ビデオクラフト)のTVアニメ・シリーズ『キングコング』の製作に携わっており、アーサー・ランキン・ジュニアは1967年公開の東宝映画『キングコングの逆襲』にも参加。これが切欠になったのか2人は日本のプロダクションとの提携を始めます。当初はTVアニメ作品の製作でしたが、1973年に東宝との提携で劇場映画『MARCO』(マルコ・ポーロの伝記映画。日本未公開)を製作します。


1975年~1976年頃にランキン=バス・プロダクションは劇場映画『最後の恐竜』の企画を東宝に持ち掛けます。しかし東宝は上述の『ネッシー』の企画があった為に、これを断ります。一方で東宝はランキン=バス・プロダクションに、当時資本関係があった(東宝が筆頭株主だった)円谷プロダクションを紹介します。

当時の円谷プロダクションは『ウルトラマンレオ』の放送終了と共に第二次ウルトラシリーズも終了となった事で、新たな活路を求めていました。


こうしてランキン=バス・プロダクションと円谷プロダクションの合作による『最後の恐竜』の製作が決定しました。監督は上述の『MARCO』でシーモア・ロビーと共同で監督を務めた小谷承靖(アレックス・グラスホフと共同)。撮影は長野県上高地や富士山付近など殆どが日本国内で行われています。

資本はアメリカ、企画や脚本をアメリカ側で準備し、リチャード・ブーンを始めとする出演者もアメリカ側で選び、ロケーションは日本、撮影はドラマ部分は日米混成スタッフ、特撮部分は日本側のスタッフで行うというスタイルであったと思われます。

アーサー・ランキン・ジュニアとジュール・バスにとって、この様なスタイルで製作を行なう最大のメリットは、ハリウッドで製作するより遥かに製作費が安く、しかし一定の水準以上のクオリティがある作品を製作出来るという事にありました。ビジネスライクなスタイルに思えますが、アーサー・ランキン・ジュニアとジュール・バスの2人が日本の映画やアニメーションの製作体制を理解し、そのクオリティに信頼を置いていたからこそ可能だったスタイルとも言えます。


『最後の恐竜』は残念ながらアメリカでは配給がつかず、1977年2月にABCネットワークでのTV放送となりました。元々劇場映画として製作された作品なので、このTV放送は好評だった様で、ランキン=バス・プロダクションは翌年の1978年にも日米合作、小谷承靖 監督によるTV映画『バミューダの謎 魔の三角水域に棲む巨大モンスター!』を製作しています。

日本では東宝東和が配給し『極底探険船ポーラーボーラ』のタイトルで、東京では1977年9月10日から劇場公開、私の地元の名古屋では1977年11月12日から劇場公開されました。(併映:ウォーレン・オーツ主演『ドラム』)

また劇場公開前に、同作品のメイキング映像を紹介するTV特番が放送されています。


さて……この作品の邦題ですが、予告編では『最後の恐竜』だったのですが、劇場公開時に『極底探険船ポーラーボーラ』と改題されました。

米題は『THE LAST DINOSAUR』。『最後の恐竜』は直訳でした。これは劇中に登場する現代まで生存していた恐竜と、リチャード・ブーン演じる主人公で、生き方を変えられない男とを掛けたタイトルでした。

『極底探険船ポーラーボーラ』は配給の東宝東和のネーミングだと思われます。劇中、それほど活躍する訳でもないメカニックをタイトルに冠した理由は、ズバリ『宇宙戦艦ヤマト』の影響でしょう。

1977年9月と言えば、アメリカで公開中の『スター・ウォーズ』と日本で公開された劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の大ヒットで、スペース・オペラのブームが起きていました。『最後の恐竜』のタイトルではタイミングを逃した感があり、何とか観客の関心を引く為に『宇宙戦艦ヤマト』調のタイトルである『極底探険船ポーラーボーラ』に変更したのではないかと思われます。


−タイトル変換史−

1977年 予告編

『最後の恐竜』


1977年9月10日 劇場公開

『極底探険船ポーラーボーラ』


1979年5月4日 フジテレビ系放送

『最後の恐竜 ポーラーボーラ』


1986年7月21日 VHS発売

『最後の恐竜 極底探険船ポーラーボーラ』


2009年5月22日 DVD発売

『極底探険船ポーラーボーラ』


〈余談〉

1977年4月。ニュージーランド沖で日本のトロール船「瑞洋丸」が、首長竜に似た謎の生物の腐乱死体を引き上げました。「ニューネッシー」と名付けられ国際的にも注目を集めましたが、この事が上記の2本の恐竜映画に何かしらの影響を与えたかは、定かではありません。



1977年4月29日 名古屋市映画案内

『恐竜・怪鳥の伝説』

上映劇場

「ロキシー劇場」

「SK東映」

「名古屋東映」

「大曽根東映」

「堀田東映」

「内田橋東映」

東海・北陸の上映劇場

1977年11月12日 名古屋市映画案内
『極底探険船ポーラーボーラ』
上映劇場
「メトロ劇場」

「名宝スカラ座」は『ドラム』の併映が『ジェームズ・ディーンのすべて 青春よ永遠に』であり、『極底探険船ポーラーボーラ』は上映されていません。


1979年5月4日 ラ・テ欄
『最後の恐竜 ポーラーボーラ』と改題


『恐竜・怪鳥の伝説』
1977年 日本
東映
【出演】
渡瀬恒彦
沢 野火子
林彰太郎
牧 冬吉
岩尾正隆
名和 広
野口貴史
有川正治
中村錦司
諸口あきら
【監督】
倉田準二

『極底探険船ポーラーボーラ』
THE LAST DINOSAUR
1977年 アメリカ/日本
ランキン=バス・プロダクション
円谷プロダクション
【出演】
リチャード・ブーン
ジョン・バン・アーク
スチーブン・キーツ
ルーサー・ラックリー
中村 哲
関谷ますみ
ウィリアム・ロス
カール・ハンセン
ナンシー・マグシグ
苅谷俊介
【監督】
アレックス・グラスホフ
小谷承靖