このブログは女装に関する内容をたっぷりと含んでおります。
女装に 興味のない方や不愉快に思われる方はお読みになられないことをお勧めいたします。



平成の30年間を振り返って、そして新しい時代へ

 大阪エリザベス(九条)で初めて完全女装を体験したのが昭和63年でした。日本で最初に女装サロンが登場したのが昭和53年の東京のエリザベスだったと聞いています。それまでにもアンダーグラウンド的な女装スポットは存在していたようですが、商業的に広く存在を公表するような女装サロンはエリザベスが初めてだったと言われています。その登場は、今と比べれば情報の伝達手段・経路・量が格段に貧弱だった時代であっても、確実にわたしには届いていました。その第一報はテレビのワイドショーでした。衝撃的でした。
 実は、エリザベスが登場する以前、中学生だった頃に、わたしは「男の人に女の人の格好をさせてくれるようなお店があったらいいのになあ」と空想していた時期がありました。「あったとしてもそんなお店を使う客なんているのかしら、いたとしても周囲の目もあるのにどうやって入ったらいいのかしら」などと考えていました。今と比べれば情報の伝達手段・経路・量が格段に貧弱だった時代ですから、このわたしの発想は何の情報の影響も受けていない全くのオリジナル発想だったと思います。
 「ええっ! まさか!本当か!」
 ですから実に衝撃的だったのです。
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 その後は週刊誌の広告記事であったり、テレビの深夜番組であったり。エリザベスに関することを目にするたびにワクワクしたものでした。約10年の歳月を経て手繰り寄せられるべくして手繰り寄せられたのか、それとも手繰り寄せるべくして手繰り寄せたのか、「変態が集まるようなサロンには、行ってはいけない。行ってはいけない」と、葛藤しながらも、たどり着いたのが大阪のエリザベスだったのです。ソウルオリンピックの開催期間中だったことを覚えています。
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 前年には大韓航空機爆破事件などがあったことから、日本国内の各地の空港でも保安検査が異常に厳しく、往きは自前のスカート&ブラウスが、これに帰りはエリザベスで購入したブラ&ショーツ&キャミソールが加わった女装グッズが保安検査窓口で公衆の面前にさらけ出されるのではないかと怯えたことも覚えています。それからさらに30年の月日が経過しました。
 初めての完全女装では、自からの醜い姿を目の当たりにして「女装なんかするものではない」と決意したはずでしたし、女装サロンで完全女装してしまったという事実は、誰にも明かすことなく、ひっそりと、何が何でも墓場まで持っていかなければならないと意を決していたはずでした。それがまさか、その後、SNSなどというネットワーキングサービスが構築されて、その中で自分が女装に関する情報を、発信しているなんて。
 大阪エリザベス(九条)での完全女装は首下女装の期間に1回だけ体験したものでした。その後もこの首下女装は続きます。
 この時期のわたしは一人暮らしでした、この時期のわたしの首下女装を「婦人服を一定数保有し一人で随時着用して一瞬の快感を愉しむこと」と定義します。婦人服の廃棄と購入を繰り返しながらも、この首下女装は一定期間継続しました。通販などなかった時代ですから、購入とは、もちろん婦人服店での直での購入でした。「あの・・・プレゼントなんですけど・・・」と言って、12店舗で延べ16回を記憶しています。初めての購入はブラウスとスカートでした。2回目はカーデガンとスカート。3回目はワンピース。4回目は・・・。今思えば、お店のスタッフにはバレバレだったと思います。今となっては恥かしいと思うよりも懐かしく思います。しかし、このような婦人服購入者は、わたし一人ではなく、過去から一定数、それもかなりの数いたのではないかということを、その後の女装者との交流の中で確信しています。お店のスタッフもそこのところは慣れたもので、売上に貢献してくれているある一定数の女装者はお得意様だったのかもしれません。リピート率は女性のお客よりも高いかも。
 この首下女装の期間では醜い完全女装を体験して失望したにもかかわらず、完全女装でなくても、婦人服を身に纏って一瞬の快楽に浸ることを愉しんでいたのです。その通り一瞬です。ブラウスのボタンを全部留めた時、ボウタイをキュッと結んだ時、背中のファスナーを上まで上げ切った時、フレアースカートを穿いてくるりと回った時、何とも言えない快感に襲われるのですが、その直後には「何やってるんだろう」という興覚め感にも襲われるのです。しかし、婦人服の持つ一瞬の快感は捨て切れませんでした。この婦人服の魅力については別途改めて探求してみたいものです。
 この間、大阪エリザベス(九条)での初めての完全女装があったり、また一般の化粧品店で化粧品を購入したこともありました。化粧品を購入しても、女装メイクテクを勉強したり上達させるための情報や手段は今とは格段に劣るというよりも全くゼロの時代でしたので、ただ塗りたくるだけのメイクで何の進歩もありませんでしたが、、首下女装だけに満足できずに何かを模索していたのかもしれません。
 この後、親元での生活環境となったのを機に、首下女装からも完全に足を洗った期間が約10年間ありました。「完全に足を洗った」と言っても微妙ですが、この10年間は「婦人服を保有しないで、女装サロンでの女装をスポット的に楽しむ」手ぶらサロン女装の時期でした。大阪のエリザベスは九条から難波へと移っていました。また、「婦人服を保有しないで」とは言っても、難波エリザベスで購入したブラ&ショーツとキャミソールはしっかりと隠し持っていましたが・・・。難波エリザベスでの女装は九条エリザベスでの女装とは格段に満足のいくものでした。難波エリザベスのサロンでは「わたしって、そこそこいけてるかも」と鏡に向かって囁いていました。スタッフさんに「なかなか素質あるわよ。自信持ちなさい」と言われて感激したことや、難波エリザベスのあったビルの前を数十メートル女装で歩いたときに世の中がガラッと変わった衝撃は今でも忘れられません。それから、女装という行為を前向きに扱っていた「くいーん誌」にも出会えました。
 当時、付き合っていた彼女がいました。その彼女の部屋に遊びに行った時のこと。彼女が急な用事で外出、わたしはしばらく留守番。わたしには壁にかかったワンピースがさっきから目に止まっていました。サロンでのスポット女装では婦人服への飢えは抑えきれなくなっていて、もちろん着ました。彼女が帰って来て、「ごめんなさいね、友達が急に・・・」「いや、俺は別にかまわないよ。そんなことより、お疲れ様」「何か作るから待っててね」
 帰って来て部屋着に着替える彼女の横顔を何気なく眺めていましたが、例の壁にかかったワンピースを見た彼女の口が声には出ませんでしたが「ゲゲッ!」と、驚愕のもとに大きく動いたのを覚えています。前と同じように元に戻したつもりだったのですが・・・。
 時代の変化とともに、インターネットとの出会いが大きくわたしを突き動かします。 突き動かされたらトントン拍子に親元を離れ、新しい就業先を見つけ、女装スナックの会員になり、「女装やりたい放題」の環境に浸っていました。 
 エリザベス九条、エリザベス難波に始まり、ゲストルーム315、CC倶楽部、トークばら、パレットハウス、ルージュ・・・。
 女装をテーマにした多くの方のホームページを拝見させていただくと、写真館とかフォトコーナーとかありました。女装を始められた頃の写真はお世辞にもきれいと言えないような方が、経験を経て美人に進化されているお姿を見ると「俺もできるんじゃないか」と思えたのでした。女装は自分の力で進化するものです。
 ネットで何でも好きなものを自由に買える時代になっていました。もちろんわたしも自前のお洋服を揃えて、ウイッグも買って、メイクを覚えて、パンプスも買って、バッグも買って、またメイクもお勉強して、女性誌やメイク本も買いました。それから一人ファッションショー用の等身大の姿見も。
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一人ファッションショー
















 毎週末にはビクビクしながらでもお出かけするのが楽しみでした。きっと二十歳前後のおしゃれを覚えたての本物の女の子もこんな感じで日常を楽しむのでしょう。
 ただ、ネグリジェだけは買いませんでした。買ってしまうと正真正銘の変態になってしまうと思ったからです。

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←毎週末には女装外出
 イケイケ美人姉ちゃん風を目指していました。昼間はバリバリのサラリーマン。ファンの女の子もけっこう多かったのですが、日焼けがひどくて厚いファンデ女装でした。

この白のスーツはお気に入りでしたが、女装の中断とともに廃棄しました。







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←怖い体験もしました
このネイビーのワンピもお気に入りでしたが、女装の中断とともに廃棄しました。
















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←女装で一般のスナックへも









 女装スナックで、男性のお客様にお気に入られたこともありました。「こりゃ、やばいなあ~」と思いながらも、夜のお食事やドライブ、買物などのお付き合いを重ね、そして、とうとうホテルへ。わたしは、そこそこ酔っぱらってはいたのですが、ベッドの上で泥酔状態の振りを決め込みました。
「何じゃこりゃあ!!あんっ!!いい加減にせんかっ!!このオ○マ野郎がっ!!」
「あ・はいっ。すみません」
ブラジャーとウイッグを残して、着ていたものを剥ぎ取られ、殺されるんじゃないかと,全身に戦慄が走って、酔いも一気に醒めました。トラブルに発展してしまうと女装している側がやっぱり不利です。『ホテルに女装者の遺体!』いかにもマスコミが飛びつくような事件です。洒落にもなりません。素直に従順に、かわいらしく招き入れている女役を演じながら、大事な所は懸命に力を込めて引き締めて何とか護り抜きました。そのお客様はわたしの演技に満足してくれたのでしょうか「いいよ、いいよ、怖がらせてごめんね。いっしょにお風呂入ろうか」と優しく言ってくださいました。男って、やっぱり単純なんですね。
「食事やデートに付き合って上げたのは、成り行き上、たまたまそうなっただけのことであって、全てがOKなんてとんでもない」と言う世間の女性の気持ちも何となくわかったような気がしました。
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「女装やりたい放題」の環境も結婚を機に一気に霧散しました。お気に入りのワンピともスーツとも、スカートとも、メイク道具、ウイッグ、パンプス、ブラ&ショーツ、バッグ、ネックレス、イヤリング・・・みんなとお別れした時はとっても悲しかったです。親父が死んだ時が一番悲しかったとしたら、二番目に悲しかったことがこの女装用具とのお別れでした。ゴミ袋にして確か8つ分でした。
 ここで、女装とは決別したはずでした。それでも復活したのです。わたしの女装にかける呆れるほどの執念にも驚かされましたが、そもそも女装という行為がやっぱり「死ぬまで辞められない」のですから、驚くほどのことではないのです。
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←パレットハウスでの復活
 女装のブランクの影響って思った以上に大きいと痛感しました。パンプスを履きこなせないし、表情はガチガチだし・・・。






 パレットハウスで復活したときには嬉しさのあまりポージングに没頭して、足底筋がつってしまいました。
 その後は、オリジンhttps://http://origin.x0.com/でロッカーを借りて女装を嗜んでいます。
 今年平成30年は、わたしが女装を復活して3年を経過して4年目に入った年でした。昨年の暮れに理沙さん、今年の9月にはみずきさん、10年来のブロ友の方がはるばるわたしを訪ねて来てくださり、お会いすることができました。女装をやっていて良かった。女装を復活させていてよかったとしみじみ思いました。女装して女装について語り合うことがこんなにすばらしかったなんて。
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←理沙さんと






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←みずきさんと









 前置きが長くなってしまいましたが、この平成の時代も終わろうとしています。新しい時代が到来しても、わたしは、おそらく、しばらくは、まだ女装を続けていることでしょう。平成という時代を、首下女装や完全女装など、形態の変遷はありますが、30年以上の期間を、平成に限っては完全に30年間を跨いで女装をしているということになるわけです。しかし、いつまで続けられるかわかりませんからある程度のレベルアップはしておきたいところです。辞めてしまってから「もう少し頑張ってればよかったのに」とか「これぐらいはできたはずだったのに」などとは言いたくありません。 
 
 今年も20余回ほど女装したその中でただ漫然と女装していることの何と多かったことか、そのことを深く反省して、改めて女装の心・技・体とは何かを確認して、新しい時代を迎えたいと思います

心とは、主観の暴走を制御しながら、客観に基づく美人像を追究し実践する心
技とは、美人に仕上げるメイクテク、女らしい身のこなし、女らしいしぐさ
体とは、太くなく、逞しくなく、ウエストがくびれた、しなやかで健康な体