本日は、「第二次世界大戦を、世界で最後まで戦った男」小野田 寛郎(おのだ ひろお)さんがお亡くなりになって6回目の命日です。
この方は僕の脳内では、アンネフランクと並ぶ程の大戦の被害者だと思うので、書きます。

下記文章は、小野田さんの自叙伝「たった1人の30年戦争」(東京新聞出版局)と、
05年8月13日フジテレビで放送された「実録・小野田少尉 遅すぎた帰還」
などを元に構成しました。(文中一部敬称略)


第二次大戦で日本軍将兵は、「戦陣訓」を叩きこまれました。
その中で一番有名なのは
「生きて虜囚の辱めを受けず」(生きたまま捕虜になるのは最悪の恥。名誉の戦死をとげよ)でした。
だから日本将兵のほとんどは、捕虜になることを恐れて、食糧が尽きても、虫やミミズや、時には人肉を食べて生き延びて抵抗を続け、敗北が確定すると、自爆突撃、米兵の言う「バンザイ アタック」をして全滅しました。
それを日本のメディアは
「勇猛果敢に敵陣に最後の総攻撃を敢行。全員が玉砕を果たした。これぞ帝国軍人魂なり」
などと美化して報じたわけです。

しかし※陸軍中野学校 二俣分校(スパイ養成校)出身で、大戦末期の1944(昭和19)年大晦日に、フィリピンの離島 ルバング島に派遣された、小野田寛郎 情報少尉の任務は異なっていました。
 

「ルバング島は、敵占領が予想される。
占領された島内で生き延びて、敵をかく乱し続けよ。
決して玉砕してはならない。
後で必ず迎えに行くから、3年でも5年でも持ちこたえよ。

いいか、決して玉砕してはならぬ!」

旧日本軍では、上官の命令は「絶対」でした。

小野田 少尉のような、敵陣に残って活動を続けることを、ミリタリー用語で「残置諜者」(ざんちちょうじゃ)と言います。

 

ルバング島は、マニラ湾に面しており、大きさは伊豆大島ほど。
マニラ湾を航行する全艦艇が見えるので、当時戦略的に重要でした。

 

小野田 少尉は派遣前、母の小野田タマエさん(息子の任務先内容等は一切知らされてない)から
「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」
と言われ、嫁入り道具の短刀を渡されました。
しかし小野田 少尉の心の中では
「オレは死なないぞ。生き延びて、任務を全うするぞ」

でした。

 

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※陸軍中野学校 二俣分校
スパイ養成校の中で、ゲリラ戦を専門とする学校。

主にサバイバル生活を送りながら、ゲリラを続けるすべを学びます。

ここでは、「生きて虜囚の辱めを受けず」を完全否定して、

「生き延びて任務を全うせよ。捕虜になった場合は、2重スパイになれ」

と叩き込まれます。

また当時の日本の社会ではタブーだった、「天皇制」についても自由活発な議論も行われました。

この学校では、所属していたこと自体が機密事項なため、修了は、卒業ではなく、「退校」扱いとなります。

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ここで背景の「フィリピンの戦い」について、さっくりと

1944(昭和19)年10月20日、米国を中心とする連合軍は数百隻の大艦隊と共に、フィリピン中部のレイテ島に上陸を開始。

これに対して日本軍は、決戦を挑むべく、大軍をレイテ島に送りました。
しかし多くは輸送途中で敵に沈められ、満足な兵力物資もない飢餓地獄の中で、レイテ決戦は惨敗。
米軍はレイテ島上陸からわずか2カ月後の44年クリスマス(米国時間)に
「レイテ島での組織的抵抗の終了」を宣言。

連合軍による、首都マニラがあるルソン島への上陸は時間の問題でした。
また戦略的に重要なルバング島進攻も予想されました。
そんな時期、ルバング島に小野田寛郎 少尉は派遣されました。

小野田 少尉は翌1945(昭和20)年1月、連合軍の大艦隊を発見。
ルソン島の日本軍本隊(「本隊」という表現は正しくないですが、便宜上、ということでお許しを)に対して
「敵艦見ゆ、針路北」
を打電。
これを受けた日本軍本隊は、連合軍によるルソン島最初の上陸地点がマニラ湾ではなく、北のリンガエン湾であることを察知。
日本軍は連合軍上陸直前に、リンガエン湾での防御陣地構築に成功。
しかし「焼け石に水」で、その後のルソン島でも凄惨な飢餓地獄の玉砕戦となります。

マニラなど主要部が陥落した後、残りわずかとなった日本軍本隊は、ルソン島北部の山岳地帯に逃げ込みます。
補給が完全に途絶えて自給自足の生活を送りながら、8月15日、NHK国際放送で玉音放送を受信します。
降伏文章に署名したのは翌9月。
投降のため、山から下りてきた日本兵の大半は、数ヶ月間ろくな物を食っておらず、歩くのがやっとでした。

しかしこれはかなりマシな方。
日本軍は、一部の部隊に対して
「玉砕はせず、持久戦に持ち込め」
と命じており、フィリピン各地で孤立して連絡が取れない部隊がいくつあるのかわからず、これらが投降するまで数カ月~5年かかりました。(小野田隊を除く)

いや、生きていただけでもまだマシか。

フィリピンの戦いでの死者は、日本軍37万人のうち33万人が、米軍1万3千人、フィリピン人は同政府推定で100万人以上とされます。
日本本土空襲での、焼夷弾や原爆等+沖縄戦をはるかに上回る方々がお亡くなりになりました。
日本軍犠牲者のうちの半数以上は、戦死ではなく、餓死や戦病死だったと言われています。
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話をルバング島に戻します。

1945(昭和20)年2月、ルバング島も米軍に占領されます。
米軍による毎度おなじみの圧倒的な艦砲射撃で、日本軍陣地は徹底的に破壊され、日本軍はほとんど応戦できませんでした。
日本軍敗残兵は数名程度の隊に分かれて、ジャングルに逃げ込みました。

日本降伏翌月の同45年9月、小野田 元少尉の家族に「戦死公報」が届きました。

しかし小野田 元少尉は、ジャングルで生存していました。

同45年10月、航空機が、ルバング島に大量のビラをまきました。
ビラにはこういう趣旨が書かれてました。

「日本軍将兵に告ぐ
戦争は終結した。大命 (陛下の命令)により、速やかに米軍に投降し、日本に帰国せよ。
大日本帝国陸軍 南方軍総司令官 寺内寿一 元帥」

これを見て、小野田 少尉は断言しました。
「これは、敵の謀略(ぼうりゃく)だ!」

なぜ小野田がそう思ったかというと、スパイ養成校で
「謀略戦の一環として、敵に対して『戦争は終わった』とウソの情報を流して、敵を投降させる方法がある」
と習っており、このビラの日本語がおかしいので、このビラが米軍で造られたことを見抜いたからです。

当時ルバング島に潜伏していた元日本兵の中で、投降したのは少数でした。

小野田は共に行動していた3名の元兵士に、日本で軍上層部から知らされていた、今後の戦況予測を話しました。
「米軍は今後、日本本土を占領して、米国の傀儡(かいらい)政権を樹立するだろう。
しかし日本は満州に亡命政権を創り、徹底抗戦を続けるだろう。
必ず援軍が来るから、それまで我々は持ちこたえよう!」

翌1946(昭和21)年2月、投降した元日本兵がスピーカーで、
「戦争が終結したので、投降するように」と呼びかけました。
これで、島に潜伏していた元日本兵のほとんどは、投降しました。

しかし小野田隊の4名だけは
「これも敵の謀略だ」
と思い込んで、出ていくことはありませんでした。


小野田達は、島に米軍が駐屯しているのは戦争が続いている証拠だと思い込み、朝鮮戦争が始まってルソン島からの米軍機の出撃回数が増えると
「日本亡命政権の反攻が始まった」
と思い込み、ベトナム戦争が始まって再び米軍機の出撃が増えると
「日本軍による反攻が激しくなり、米軍は追い詰められている」
と思い込んだのです。

 

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フィルピンは戦後の独立後も、日本と同じような事情で、米軍が駐留していました。

また、これに対する「お礼」として、ベトナム戦争にもフィリピン軍を派遣しました。

冷戦終結後の1992(平成4)年に両国の合意に基づき、米軍は撤退。

ただし後に南沙諸島の領有権をめぐって、フィリピンと中国の対立が起き、再び在比米軍が駐留。

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小野田隊はジャングルでサバイバル生活をしながら戦後、米軍基地、フィリピン軍基地(小野田達は、フィリピン政府を米国の傀儡政権だと思い込んでいた)などに対して百数十回のゲリラ攻撃をしかけます。
丸腰の島民に発砲したことも多数。
米軍兵、フィリピン軍兵、フィリピン民間人を推定百数十名殺傷したとされます。

後年のフィリピン政府の集計によると、小野田隊により殺されたとされる民間人は、約30名にのぼります。

時にはフィリピン人民家に泥棒に入り、生活物資を盗み、ジャングルに逃げ帰りました。

島民による、

「収穫が終わった農作物を満載した小屋に、放火された」

など、小野田隊の犯行と思われる被害証言も多数。

 

ルバング島民にとって、小野田隊は山賊のような存在だったのです。

熱帯ジャングルでの過酷な生活には高カロリー食品が必要でしたが、島には牛が放牧されていたので、これを射殺、乾燥肉を作って良質なたんぱく質をGET。
ヤシの実でビタミン類をGET。
ヤシの実オイルを煮込んで、銃のメンテナンスをしました。
弾薬は、日本軍が島に遺棄した同じ口径の機関銃弾を分解して、自身の使用済み薬きょうに火薬と弾丸を装填して「新しい弾薬」の完成。


島での生活が5年目に達した1949(昭和24)年、小野田隊の赤津勇一  元一等兵が脱走、フィリピン軍に投降。

フィリピン軍は、小野田隊に投降をうながすビラを島のジャングルに撒きました。
脱走した赤津勇一 元一等兵はそのビラに
「投降した私を、フィリピン軍は友達のように迎えてくれました」

と書きました。

しかし小野田隊3名は、無視。

1951(昭和26)年、帰国した赤津勇一 元一等兵が、衆議院 社会労働委員会で証言し、
「ルバング島に旧日本兵3名が生存」
していることが日本で判明。

しかし当時のフィリピンは、独立直後の政情不安定期。

日本政府は救出活動を行うことはできませんでした。

 

1952(昭和27)年、フィリピン政府は小野田隊討伐を決定。
これを知った、マニラ駐在の朝日新聞記者や元日本軍将校が、救出活動を展開。
元日本軍将校はフィリピン軍機で上空からスピーカーで投降を呼びかけ、ビラを撒き、朝日記者はジャングルで上半身裸になり
「この白い肌を見てくれ。私は日本人だ!」

と叫びました。
ビラには、小野田隊の家族の写真手紙も含まれていました。

小野田隊の島田庄一 元伍長は大戦中、出征する時、妻は身重でした。
このビラで、初めて自分の子供が女の子であることを知ったのです。

しかし小野田隊の3名は、無視。

この後、小野田隊はフィリピン軍と何度も銃撃戦を展開します。


島での生活が10年目に達した1954(昭和29)年5月4日、島で対共産ゲリラ演習中のフィリピン警察軍が、小野田隊と遭遇。
小野田隊は「自分達への討伐軍だ」と思い込み、発砲。
これに警察軍が応戦。

銃撃戦の最中、島田庄一 元伍長が突然、立ち止まったのです。
小野田は「伏せろ!」と叫びましたが、島田の目は

「もういいよ、疲れたよ」

そんな風に訴えていたように思われ、立ち止ったままでした。

島田庄一 元伍長は、眉間(みけん)を撃ち抜かれて即死。

遺体の身元確認のため、小野田の長兄の小野田敏郎(としお)元軍医中佐、小野田隊の小塚金七 元上等兵の弟の小塚福治氏ら、親族が入島。

遺体が島田庄一氏であることが確認されました。

享年41歳。

この時、親族はスピーカーを使って、小野田隊に対して投降を呼びかけました。
しかし小野田と小塚は無視。

これで、「ルバング島に旧日本兵2名が生存する」ことが国際的にも認知されました。


島での生活が15年目に達した1959(昭和34)年、たび重なる小野田隊のゲリラ攻撃や略奪等に業を煮やしたフィリピン政府は、ついに本格的な討伐命令を出し、大規模な山岳隊をルバング島のジャングルに派遣することを決定。

これを知った、小野田、小塚両氏の親族、友人らが、日本政府に救出を求める活動を展開。
母 小野田タマエさん達が街頭で呼びかけたのです。
「私の息子は今も終戦を知らずに、ルバング島で戦争を続けています。
息子達の救出を求める署名にご協力お願いします!」

これには遂に日本政府が動きました。国会では
「ルバング島残留日本兵の救出」
を求める法案を全会一致で可決。

同59年5月、日本政府からの要請で、フィリピン政府は初めて同島への本格的な救出隊の入島を許可しました。
日本政府救出隊は、島のジャングルに
「日本兵の皆さんへ
我々は日本政府から派遣された厚生省の職員です。あなた達を救出に参りました。
小野田さん、小塚さん、戦争は終わりました。一緒に日本へ帰りましょう」
とのチラシを撒き、スピーカーでジャングルに向かって同内容の呼びかけを繰り返し行いました。

救出活動にはヘリコプターも動員されました。

小野田はスピーカーから聞き覚えのある声を聞いたのです。
「寛(ひろ)ちゃん、わかりますか?兄の格郎(ただお)です。
あなたの好きな曲を歌います」
こうして小野田の次兄 小野田格郎 元主計大尉は歌い出したのですが、目頭が熱くなり、節々で声がうわずってしまったのです。
それを聞いた小野田は
「兄をかたる声帯模写だ。米傀儡工作員め、しっぽを出しやがったな」
と思い込みました。

小野田と小塚は
「これは米傀儡政権の謀略である。
その証拠に、敵は今も我々を攻撃しており、救出隊の横には必ず武装したフィリピン兵がついているではないか」
と思い込んで、出ていくことはありませんでした。

救出隊は半年をかけて島の隅々を探しましたが、結局小野田と小塚を見つけることはできないまま帰国しました。

同59年11月、日比両国政府が共同で

「小野田 元少尉、小塚 元一等兵はすでに死亡したものと認め、今後は日本兵が現れたという情報があっても一切取り上げない」

と表明。

同59年12月、日本で、小野田、小塚両氏の親族に対して2度目の「死亡公報」が出されました。

小野田、小塚両家では葬儀が行われました。


しかしその後もルバング島で、ゲリラ攻撃や略奪等が続いたため、日本政府は救出活動を続けました。

ある日、小野田は救出隊のスピーカーから聞き覚えのある声を聞いたのです。
「寛郎、わかるか?種次郎だ。お前の父だぞ。
頼むから出てきてくれ。一緒に日本に帰ろう!」
 

最後は涙声になっていました。
小野田には、それが実父の肉声だとわかりました。
しかし
「父は、米傀儡から脅されて、仕方なく演技してるんだ」
と思い込んだのです。

父 小野田種次郎氏は、涙を流しながら、救出隊の人たちに対して
「これ以上息子のために、皆様に御迷惑をかけたくない」

と、救出隊の早期帰国を望みました。

小野田と小塚は、スピーカーの声の主が、実の家族であっても、親友であっても、戦友であっても、スパイ養成校の同期であっても、決して出て行くことはありませんでした。

 

↓小野田さん、小塚さんに、ビラをまきながら投降を呼びかける日本政府救出隊




後年、日本政府救出隊は、島のジャングルの中に「連絡用ポスト」を設置。
この中に、家族からの手紙や、戦後日本で発行された新聞・雑誌類を置いていくようになりました。
小野田と小塚はこれらを隅から隅まで読みました。

また、フィリピン人民家に強盗に入った時、対峙した女性がカタコトの日本語で言いました。
「せんそう、おわった。これききな」
と、ラジオを差し出したのです。
これに、米軍施設から盗んだワイヤーを繋いでアンテナ代りにして、NHK国際放送や、海外から日本向けの日本語放送(中国北京放送や英BBC放送など)を受信しました。

小野田と小塚は、新聞、雑誌、ラジオにより、戦後の日本で起こった主な出来事の多くを知ることになります。

ある日、小塚が小野田に尋ねたのです。
「隊長殿。
(1959年)皇太子殿下(後の昭仁天皇)が御成婚されました。(1964年)東京オリンピックが開催されました。(1970年)大阪万国博覧会が開催されました。
戦争は本当に続いているのでしょうか?」


1972(昭和47)年1月24日、グアムからの一報が日本中を驚愕させました。
大戦中にグアムに派遣された日本兵 横井庄一 元伍長が、同島陥落後も、敗戦を知らずにグアムの洞穴で1人で生活しているところを、現地人に発見されたのです。
最後はたった1人で、ロビンソンクルーソーと同じ28年間もサバイバル生活し続けたことに関して、日本中でその勇気がたたえられました。
「恥ずかしながら帰って参りました」

は日本で流行語になりました。

現在の若い人なら、「よっこい庄一」の語源になった方、と言えば思い出す人も多いと思います。

よころが小野田と小塚は、横井庄一 元伍長の事をあざ笑ったのです。
「横井 伍長は、ただひっそりと生活していただけではないか。
我々はこうして堂々と、ゲリラを続けているのだ!」


しかし2人きりの生活も、終わります。
同72年10月19日、フィリピン警察軍との銃撃戦で、小塚金七 元一等兵が銃を落とします。
「肩だ!」
小塚が叫んで、小野田が振り向くと、小塚の肩から血が流れていました。
小塚は続けざまに胸を撃ち抜かれて倒れこみます。
小野田が小塚の体を揺さぶった時には、口から血を吐き、白目となってゆきました。

小塚の胸には「捨てた」と言っていたはずの、日本政府救出隊が残していった「投降勧告ビラ」が入っていました。

ビラには、小塚の母親の手紙が印刷されていました。
小野田は、自身と小塚の銃に入っていた全弾を撃ち、警察軍の発砲が途絶えたタイミングで、小塚の三八式小銃とビラを持って逃亡。

翌日の東京新聞夕刊1面見出しは

 

「旧日本兵? 1名を射殺
1名は逃走 比 ルバング島」

 

でした。

日本から現地に、小野田、小塚両氏の親族と戦友達が派遣され、遺体が小塚金七氏であることが確認されました。
享年51歳。

第二次世界大戦で、世界で最後の戦死者でした。
敗戦から27年後の出来事です。

小塚金七氏の母が手記を出しました。
「人生わずか50年,その半数を異国の島ルバングの山谷に人も入らぬジャングルに27年,祖国の為と御奉公の甲斐むなしく(昭和)47年10月19日,命と共に消へ失せる悲しき最後,あまりにも哀われです」

フィリピン政府は、小塚金七氏を「勇敢に戦った兵士」として処遇。
儀仗兵(ぎじょうへい)と軍楽隊を葬儀に派遣しました。
フィリピンのF・マルコス(父)大統領(2022年~大統領のボンボン・マルコス・ジュニアの実父)は、小野田救出に全面的に協力すると約束し、島民や軍に、小野田の保護を命じました。

この時ルバング島を訪れた小野田家一同は、その足で小野田を探すべく、ジャングルに向かいました。

ただし母 小野田タマエさんはご高齢のため、足が悪く、それはかないませんでした。

過去最大規模の救出活動となりました。
 

小野田は救出隊の中に、次兄の小野田格郎(ただお)元主計大尉がいるを見つけたのですが
「兄も米傀儡に脅されて、自分を探すフリをしているのだろう」
と思い込み、出てゆくことはありませんでした。

 

↓72年10月23日、ジャングルに潜む小野田さんに投降を呼びかける長兄 小野田敏雄(としお)元軍医中佐


当時87歳の父 小野田種次郎氏が詩を残しました。

そこには、いくら呼びかけても返事すらしない息子への思いが込められていました。
 

「こだまさえ 打ち返さざり 夏山は   八十七(歳) 凡二」

 


島での生活が28年目にして、ついに小野田は1人になりました。
しかし、大切な戦友を殺された怨みから
「戦争は、1人でもできる!」
と復讐心を燃やしたのです。

 

 

その2へ続く

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