人物紹介 キム·ファンギ
② キム·ファンギ
現代美術を代表する画家であり、韓国抽象美術の先駆者
1930年代から抽象美術を試みたキム·ファンギは、韓国のモダニズムをリードした。
1950年代まで韓国固有の叙情世界を具現し、
1960年代以降は点、線、面など純粋な造形的要素でより普遍的で内密な叙情世界を深化させ「全面点画」を生み出した。
雅号は1944年までは「ヒャンアン(郷岸)」を使用していたが、キム・ヒャンアンと結婚後は「スファ(樹話)」を使用した。
代表作品 : 「宇宙」、「14-III-72 #223」、「梅と壺」など
(絵の説明) 「宇宙」 (Universe 5-1-71 #200) キム・ファンギ (1971)
③ キム・ファンギの代表作
④ キム·ファンギ(日本留学時代 - ソウル時代)
1933年、日本大学芸術科美術部に入学し、
本格的に画家の道を歩むことになる。
帰国後、ビョン·ドンリムを紹介された彼は、
地道に送った手紙で彼女の心をとらえた。
そうして2人は手紙を交わしながらますます親しくなり、
結婚当時のピョン·ドンリムは「あなたの雅号『ヒャンアン』を私にください」と言って彼の雅号を望むと、
キム·ファンギは自身の雅号を彼女に与えた。
そのようにビョン·ドンリムは「キム·ヒャンアン」という名前を使い、キム·ファンギと一生を共にする。
キム·ファンギはキム·ヒャンアンと結婚後に「スファ」という新しい雅号を使う。
⑤ キム·ファンギ(パリ時代 - ソウル時代)
1946〜1950年までソウル大学美術大学の教授を務めたキム・ファンギは1956年にパリに向かう。
彼の妻のキム・ヒャンアンはその1年前にパリに行きフランス語を勉強してアトリエを調べるなど
キム・ファンギが芸術だけに集中しながらパリに来れるように準備しておいたりもした。
キム・ファンギはこの時代には主に壺、十長生、梅などを基本とした抽象静物画作業をし、
パリ、ニース、ブリュッセル、フィレンツェ、モナコなどで個展を開き、彼の美術を世界に初めて知らせ始める。
1959年にソウルに戻ったキム・ファンギは1963年まで弘益大学の教授と学長を歴任した。
この時代には山、月、雲など韓国の自然が主な素材で、
その結果、青い光を根幹とした簡潔な韓国的絵画で再誕生することになる。
1963年、韓国代表としてサンパウロ・ビエンナーレに参加して名誉賞を受賞したキム・ファンギは、
もう一度世界に出ることを決心し、1963年、ニューヨークで新たな挑戦を始める。
⑥ キム·ファンギ(ニューヨーク時代)
死去した1974年までニューヨークで旺盛な活動を見せたキム·ファンギの作品は、ニューヨークに行く前後に変化が生じる。
ニューヨークで彼は点と線、という造形の基本要素を利用した抽象絵画について実験を続け、
その結果、自分だけの独創的な表現技法である「全面点画」を完成させることになる。
また、彼の点火シリーズの中でキム·グァンソプの詩
「夕方に」をモチーフに描いた
「どこで何になって会おうか」という作品で
1970年の「第1回韓国美術大賞展」で大賞を受賞する。
1974年7月25日、61歳でキム·ファンギはこの世を去る。
現在、彼はニューヨーク市バルハラ村のカンシコ墓地に埋葬されており、キム·ヒャンアンもキム·ファンギの墓の隣に埋葬された。
キム·グァンソプ - 夜に
あんなにたくさんの中から
星が一つ私を見おろす
こんなに多くの人の中で
その星一つを見つめる
夜が更けるほど
星は明るさの中に消え
私は闇の中に消える
このように情のある
君一人私一人は
どこで何になって
また会おうか
(絵の説明)「どこで何になってまた会おうか連作'」(10-VIII-70#185), キム·ファンギ, 1970
人物紹介 イ·サン
② イ・サン
大韓民国の詩人兼小説家。
本名はキム・ヘギョン。小説[12月12日]で登壇した彼は[朝鮮と建築][異常な可逆反応]などの詩を発表し、
1932年に[建築無限六面角体]を発表しながら「イ・サン」というペンネームを使った。その後「イ・サン」という名前で活動した。
1930年代の自意識文学の先駆者イサンは
既存の文学的形式から離れ、実験的な作品を発表した
代表的な超現実主義、モダニズム作家だ。
代表小説[12月12日][翼][終生期][逢別記]
代表詩[異常ナ可逆反応][建築無限六面角体][鏡][破片の景色][烏瞰図]など
③ 〈ラフ・ヘスト〉の中のイ・サン
プレビュー
イ・サンとドンリム、お互いを何も言わずに見つめて、すぐに目を避ける。
イ・サン:あの...
ドンリム:はい?
イ・サン:この文章も一度読んでみてくれないか?
「異常ナ可逆反応」
任意ノ半径ノ円(過去分詞ノ相場)
円内ノ一点ト円外ノ一点トヲ結ビ付ケタ直線
二種類ノ存在ノ時間的影響性
(ワレワレハコノコトニツイテムトンチャクデアル)
直線ハ円ヲ殺害シタカ
(原文通り)
1931年の『朝鮮と建築』7月号に収録された作品。「可逆反応」とは、化学で正反応と逆反応が同時に起こる反応で、絶えず繰り返される「繰り返し反応」ともいう。正反応は誕生、逆反応は死を意味し、継続して生まれ死に、続く人生について語る詩だ。
(出典:[イ・サン詩解説]、シン・ヨンサム、いい土地、2012)
④ 〈ラフ・ヘスト〉の中のイ・サン
プレビュー
イ・サン:読んでみた?
ドンリム:その詩で花の木は「私が考える花の木」に向かって進むけど、到達できなくて
挫折する気持ちがよく表現されていると思いました。
イ・サン:人は、詩とも呼べない奇怪でえげつない言葉遊びをやめろって言ってたけど。
ドンリム:そんな凡夫たちの言葉を全部聞きながら、どうやって詩を書こうというの?
イ・サン:(爆笑しながら)凡夫だなんて。
「花の木」
野原の真ん中に花の木が一つある
近くには花の木が一つもない
花の木は、
私が思う花の木を熱心に考えるように、
熱心に花を咲かせた
花の木は私が思う花の木には行けない。
私は逃げた。
一つの花木のためにそうしているように、
私は本当にそんな変な真似をした
1933年「カトリック青年」7月号に収録された作品で、イ・サンが発表した最初のハングル詩。
現実的な自我がいくら努力しても理想の自我に届かない乖離感とそれに対する省察を盛り込んだ詩。
(出典:[イ・サン詩解説]。シン・ヨンサム、いい土地)
⑤ 〈ラフ・ヘスト〉の中のイ・サン
プレビュー
イ・サン:それで、何て書けばいいか分からないんだよね。
ドンリム:行きましょう。
イ・サン:どこ?
(ドンリム、イ・サンの手を率いて出かける。)
ドンリム:どうですか?
イ・サン:三越百貨店の屋上だなんて。やっぱりドンリムらしいね。
ドンリム:今あなたがここで感じる感情が、小説の中の彼が感じる感情だと思うから。
立ち上がって、私はまたふと考えた
この足が今どこに向かっていくのかを
実は事実通り、誤解は誤解通り、
ただ延々と足を引きずりながら
世の中を歩けばいいのだ
私は歩いていた足を止めて、
それから起き上がり、一度
こうやって叫んでみたかった。
翼よ、再び生えよ
飛ぼう 飛ぼう 飛ぼう
もう一度だけ飛んでみよう
もう一度だけ飛んでみようじゃないか
- イ・サンの短編小説「翼」から
1936年 朝光誌に発表した短編小説。何もすることがない「私」が売春婦の妻と一緒に暮らしながら起きることを描いた小説。妻と「私」の奇妙な関係を通じて、近代知識人の矛盾した自意識を見せている。
この小説でイ・サンは韓国文学初の心理主義作家と称されるようになった。
(出典:ネイバー知識百科、「翼」)
⑥〈ラフ・ヘスト〉の中のイ・サン
プレビュー
日常と惰性の繰り返し
痛切な生涯と青春の蕩尽
虚しい世界で
高雅な顔を持続できるだろうか
- ミュージカル〈ラフヘスト〉ナンバー15。
終生記/カバンを一つ持ってrep。歌詞から。
15番のナンバー「終生記」は、1937年4月にイ・サンが死亡した直後に「朝光」5月号に発表された同名の短編小説の一節で歌詞を成したナンバーだ。「終生記」は「イ・サン」という名の主人公が登場する告白体小説で、「イ・サン」の死に対する認識と予感についての話で、当代の若い知識人の暗鬱な肖像が現れる作品だ。
「最後」
りんご一粒が墜落した
地球は壊れるほど傷ついた
最後
すでにいかなる精神も発芽しない
以上死後に発表された作品で、1956年のイ・サン全集に収録された。
(出典:ネイバー知識百科、「終生記」)