風景の事物描写について

 

まずは私の大好きな、ももいろクローバーZの歌う「青春賦」をきいていただきたい。

https://drive.google.com/open?id=0B-ijGAXD1SDZc29KWDhtS2s3Y1U

 

 すがすがしい歌唱だ。しかし、タイトルがいけない。

 「青春賦」の賦というのは中国の詩の文体の一つで、目にした事物の羅列で表現されるのを特徴としているものだ。おそらく「青春賦」は唱歌としてかつて学校で歌われた「早春賦」と懸けているのだろうと思う。「早春賦」は暦が春となっても雪がつづく風景を歌っているので賦と題付けるにはふさわしいといえばふさわしい。しかし、最後の部分。

 

 春と聴かねば知らでありしを

 聴けば急かるる胸の思いを

 いかにせよとこの頃か

 いかにせよとこの頃か

 

 この胸の内をさらす部分があまりに共感をよび、心象風景を連ねる事が賦と題する歌詞にふさわしいと勘違いしてしまっている。事物を連ねて歌詞になるのか?意外と日本の歌謡では五木ひろしが歌う「横浜たそがれ」や松任谷由美の歌う「中央フリーウェイ」のように、まま使われてきた技法で、事物の風景は心象風景を浮かび上がらせるのだ。「青春賦」と題するならば、そのような技法を用いて揺れ動く若き心を表現して欲しかった。しかし、これはこまい細かいイヤーナ姑のような言いがかりのようなモンクである。「青春賦」が素晴らしい歌詞を持った楽曲であることは違わない。

 

 さて次は心象風景について。

 

 先日、バージニア・ウルフ著「灯台へ」を読んだ。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AF%E5%8F%B0%E3%81%B8

 

 これは著者の自伝のような話で、哲学者ラムジー氏の家族が過ごしたスコットランドの孤島にある別荘で過ごした日を描いている。第一章ではラムジー夫人の「明日は灯台へ行きましょう」という一言で始まった一日を、一日のみを描写している。そしてその描写はその別荘を訪れている人々の心理描写の一人称語りのみで行われているのだ。次々と入れ替わる一人称の語り、一つの言葉一つの事件に対して様々に異なる感情が語られることになる。

 これは凄まじい事だ。家族とは様々な葛藤を含んだ存在の筈だ。そんな自分の家族について作家が語る時によくある方法は自分を投影した主人公に思い出語りをさせるやりかただ。自分が家族についてどのように感じてきたかをそのまま書いていけばよく、読者としてもすんなりと物語に入り、心理描写を追っていくことが出来る。

 しかしウルフは家族一人一人に憑依した如くに、すべての登場事物の目線で語っているのだ。そして登場人物には友人も含まれている。どれだけ家族について思いを巡らしたらこんな小説が書けるのだろう。悩ましく思い巡らせたその熱が伝わってくるような作品だ。しかも、起こった事象について複数の目線から語っているその客観性!

 百年も前に凄い小説を書き上げた女性がいたものだ。心理描写の芸術、たいへん感心した。

 

 そして第二部は大戦をはさんで急変した家族の運命を、淡々と事実を並べる事で描写している。

  

 最後の三部では一部で描写した日から二十年後に再び同じ別荘に集まった残った家族について書いている。

 

 全体を読む事でウルフの家族の大河的な心のうねりを体感できる仕組みになっている。そして読後に私の胸に残ったのは家族の中心で微笑んでいたラムジー夫人の美しい孤独感だった。

 

 とりとめのない話になってしまったけど、お読みいただきありがとうございました。