去る5月初め、豪放磊落にして俠気の教科書であつた武道家、北溟塾頭の竹山一信さんが亡くなられたことを、先週知りました。誠に惜しみても余りある痛恨の極みです。
さて日本の国と本を愛する諸兄なれば、40歳以上の方は「洛風書房」をご存知でせう。
60年安保で国内が騒然となり、共産主義を巡つて思想界と学生運動が四分五裂したまま70年安保に雪崩込む頃。投石と立看板とバリケードで無法地帯と化した自分の大学に危機感を覚ゑ、それを正常化させやうと、関西では京都を中心に現役学生やOBが、圧倒的少数の中で「洛風会」を結成致しました。
洛風会代表の魚谷哲央氏(現在、維新政党・新風代表)は、当時一般書店では見つけることが困難な日本主義、保守派系統の書籍を発掘するネットワークを築き上げて、ささやかな古書店を開業されます。これが「洛風書房」の始まりでした。
洛風会の周辺には、学術系、武道系を問はず、母校を愛し日本を憂ふる若者が集まり、さながら「梁山泊」の様相を呈しをつたさうでございます。
中でも当時立命館大学空手道部に属してゐた竹山一信氏は武闘派として鳴らし、日共系の牙城であつた母校の正常化を拳骨で実現することを目標にしてをられました。
その出で立ちは、夏も冬も作務衣一枚、スキンヘッドに鉄下駄を履き、学内だけでは「我を容るるに狭い」と京都の街を縦横無尽に、昼間は赤狩り、夜は斗盃を傾けて放歌高吟の日々を過ごされてゐました。気分は維新の志士であつたのです。
其の後、事が起きて退学されましたが、意気沮喪するやうな性格ではなく、独り「護身武道北溟流空手道」道場を立ち上げられました。
私が初めてお会ひした昭和57年春、或る神社の祭事が終はつた後、数人で共に一升瓶を担いで八坂神社にて花見。蒙古放浪歌や狼の歌を高吟される竹山氏の隣で、私は母校の寮歌や逍遥歌を歌ひました。もう皆へべれけの状態、誰が見ても危険極まりございません。
「次、行くぞー」と気勢を挙げる竹山氏が横断歩道を歩行中、タクシーの運転手に警笛を鳴らされ、泥酔した私がそのタクシーに駆け寄り屋根をバンと叩いた処を(馬鹿ですね~)すかさず警察に通報されました。
竹山氏は此処で、遥々伊丹から来た客人をトラブルから救はむとして下さつたのです。
先ず、駆けつけた警官が私を連行せむとする寸前に、竹山氏は自ら件のタクシーのタイヤを盛んに蹴りつけて警官と運転手の目を引き、「トリトン、帰れ。後は俺に任せろ」と陽動作戦を展開されたのでした。尤も、私も「はいそうですか」と帰る訳にもゆかず、共にパトカーで署へ連行されたのでしたが…。
署でも、竹山氏は故意に大声を上げて調書をご自身だけに留め、「この人は関係ない」と私を釈放させるやう仕向けて下さつたのでした。お陰様で私は大阪までの終電に乗ることが出来ました。一方竹山さんはその夜、泰然としてトラ箱に宿泊されたのでした。
数年後お会ひした時には、竹山氏は、日本人食生活の根本的改善を主張。
「元来、日本人の食は米と水。たまに僅かの魚が有れば良い」と、肉や牛乳、砂糖等を排することを各地を回つて呼びかける運動を展開されました。これに応へ私は「酒はぬるめの燗がいい、魚は炙つたイカでいい」と主張し、竹山氏と意気投合するのでございました。
そんな或る時「竹山氏は実はコロッケが大好き」と暴露する女性が現はれたりすることもございましたが、結局「人生意気に感じては、成否を誰かあげつらふ」といふ至言を以て、とりとめない此度の稿を締めくくりたう存じます。
最後に改めて、一代の快男児・竹山一信さんのご冥福をお祈り申し上げます。
(写真は霊山護国神社、坂本龍馬と中岡慎太郎)

