15年前の想ひ出ーーJR福知山線脱線事故の日 | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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 私の家はJR宝塚線(旧名・福知山線)伊丹駅から徒歩10分足らずの処にございます。仕事場へも、買い物にも、最寄りのJR伊丹駅を通らずして行くことはできない相談なのです。

 15年前の今日、朝9時頃に家を出る私の足を止めさせたのは長女でした。拙ブログにお訪ね下さる方はご存じやもしれませんが、長女は障碍者(ダウン症)で、自分の服を着るにも親の介助が必要です。普段であれば、ニコニコと機嫌よく下着から靴下、上着まで、私または妻が介助して5分程で着せてやるのですが、どうもこの日に限つて彼女はむずかり、素直に着てくれません。

 仕方なく、娘の着替へにいつもより10分近くを要した為に、自宅を出るのが遅れてしまひました。後になつて思へば、この10分間が私の命を救ふ結果となつたのです。

 

 時間を気にしながら伊丹駅へ着いた私を迎へたのは、当惑顔で改札口を閉鎖する駅員さんでした。

 「何があつたのですか」

 「どうやら、尼崎駅近くの踏切で事故があつたやうで… 申し訳ございません」

 場内アナウンスでも、詳細は不明だが事故のため運転を見合はせてゐるといふ内容が繰り返されるばかりでした。

 

 已む無く私は阪急伊丹駅へ向かひ、代替輸送に頼り出社することとなりました。結局仕事場へ到着したのは正午前頃でございましたが、到着後のテレビニュースで見た惨状には絶句するばかりでした。もし娘があの時、私をてこずらせることが無かつたら、明らかに私も大怪我をしてゐたのだ… さう思ふと、15年経過した今でも人生の巡り合はせを思はずには居られません。

 

 

 今では都市伝説のやうに言はれる話がございます。この日、この電車が宝塚駅に到着した頃、少々イタイ感じのおばさんが、宝塚駅へ向かふ人らに向かつて「この電車に乗つたらあかん!」と、繰り返し叫んでゐたといふのです。無論ほとんどの人たちは相手にしませんでしたが、それを見てゐた女子高生の一団が乗車するのをやめ、助かつたといふものです。この話は事故当日中に私の耳にも入りましたし、私自身が不思議な経験をしたので、あながち嘘ではないのやも知れません。このおばさんの話は後日、メディアにも登場することとなりました。

 

 仄聞した話ですが、この事故現場のすぐ前に「日本スピンドル」といふ会社があり、事故直後から社長さんの命令で、社員が救済に当たつたさうです。急場にそのやうな判断をされた事には頭が下がりますが、そのため、社員さんの多くが以後PTSDに悩まされたといふことでした。

 また、やはりすぐ近くに在る「尼崎市立大成中学校」(ダウンタウン浜ちゃんの母校として有名)の生徒数人が「俺らも手伝おうや」と現場へ向かつた処、余りのむごさに足が竦んでしまつたさうですが、ひとり寺の僧侶の息子さんだけが、遺体の回収までお手伝ひされたといふことでした。

 巷には、埋もれてはゐるが、腹の座つた偉い人が居られるものですね。

 

 今朝のJR宝塚線伊丹駅に、午前9時過ぎ頃の丁度事故が起きた時刻に私も乗車しましたが、前の1、2両にはマスコミ関係者が多数乗車し、事故後15周年の特集番組の取材に大わらわの様子でした。今はモニュメントとなつた現場マンション跡地ですが、快速電車は事件当日とは裏腹にぐんとスピードを落とした速度です。

 亡くなられた方々への追悼の想ひがこみ上げ、慎んで黙祷を捧げさせて戴きました。

                 合掌

 

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