過日、志村けんさんが亡くなられました。今さら私が語るまでもありませんが、我が国不世出のコメディアン急逝の原因が、その時代に爆発的に流行した疾患であることにより、後世益々強烈に人々の記憶に残ることになることでせう。改めてご冥福を祈ります。
実家の95歳になる父のもとへ毎日介護に来て下さるヘルパーさんの中に、若い30歳代の方がおられます。その日、私は彼女に志村さんの逝去の話を致しをりましたが、何と彼女はザ・ドリフターズのことを知らなかつたのです。加藤茶さんのことは知つてゐるが、いかりやさんの事は知らないといふので、改めて年齢の差を感じてしまひました。
さて、そのドリフターズが1966年、ビートルズ初来日の際に前座バンドとして出演してゐたことはご存知でせうか。「え?ドリフターズつて、コメディアンぢやなかたつたの?」と驚かれる方は、さぞ多いことでせう。
昭和・平成初期の有名な歌手、コメディアンの殆どが、終戦直後に進駐軍御用達のキャバレーやダンスホールなどで、アメリカ人歌手の前座としてバンド演奏をしたり、コントを演じたりした前歴を持つてをります。その当時に不安定なギャラ、誰ひとり見てゐないやうな雰囲気の中で、苦労して実力と精神力を積み重ねてゆくのですね。
その後、時代が変はつて進駐軍が日本を去つてからも現在に至るまで、芸能界の仕組みは同じですゆへ、ノーギャラ同然の雌伏の時期から実力・コネクション・機会を得てゆき、その中でほんの僅かな人だけが生き残る運命なのでございます。
大学に入学する3年ばかり前、高校生の私が憧れの学園祭を見物に参りますと、そこに長い黒髪で目の周りに濃いアイシャドーをしたGパン姿の若い女性がギターを1本抱ゑて歌ふ姿を見ました。舞台は野外です。前座をつとめる新人歌手のやうで、自分の出番が済むとさつさと楽器を片付けて帰つてゆくのでした。無論、私は名前も覚ゑてをりません。
3年後、大学へ入学すると、私は大学自治会中央委員に当選し、1回生として当然ながら学園祭の裏方をすることになりました。何気なく過去の学園祭統一プログラムを眺めてゐる私。その中にひとりの女性歌手が歌つてゐるスナップ写真が目に止まりました。
「あー、あの時の娘や」と思ひ出しつつ、小さな見出しを読んだ私はびつくり仰天。何と、あの地味なGパンの娘こそ誰あらう、五輪真弓さんだつたのです。
私の妻は十代の頃フォーリーブスのファンでした。4人の美青年が出演する前座の一人に、可愛い舌足らずの声を張り上げて歌ふ少年がおりました。それが郷ひろみさんだつたのださうです。
郷さんは私と同い年ですゆへ少々親近感もあり、デビュー後も見るともなく見てをりますと徐々に有名になり、大スターになりました。もう前座どころかトップスターの仲間入りです。
ところが、私は日本人として忘れ得ぬ、どうにも恥ずかしい事件がございました。
郷さんは、一時期バーティ・ヒギンズの「哀愁のカサブランカ」やフリオ・イグレシアスの「青い瞳のナタリー」など外国の有名歌手の歌をリリースしましたね。フリオさんなど、世界でも知らぬ人の無い大御所でございます。
ある夜、テレビを観てをりますと舞台でフリオさんが「青い瞳のナタリー」を歌つてをられるではないですか。私はうつとりと聴き惚れてをりました。ところが暫くすると、同じナタリーを歌ひながら、郷ひろみさんが後ろの階段を降りて来たのです。
「Oh my god!やめてくれ!」と私は思はず叫んでしまひました。事もあらうに、あの神様フリオ・イグレシアスを前座扱ひしたのですねー。如何に郷さんが日本のトップスターだと言つても、あのフリオさんに彼自身の歌で対抗できる筈がございません。
豈(あに)図らんやフリオさんは怒る事なく、莞爾と微笑みつつ郷さんの背中を子どもをあやすやうに叩きながら、最後の「ナーターリー」の部分を、共に唱和されたのでございました。
何といふ愚挙! スポンサーは「国辱」といふ言葉を知つてゐるのか! 番組プロデューサーは腹を切れ! …失礼、つひ取り乱してしまひました。
郷さんには申し訳ないが(彼は被害者)、これまで生きてテレビを観てきて、かくも恥づかしい思ひをしたことがあつたでせうか… 私ども夫婦は、客席に居る訳でもないのにテレビの前に並んで汗顔赤面してしまつたのでした。 〈終はり〉