今を遡ること81年前、昭和11年2月26日深夜、東京で二・二六事件が勃発しました。
私の友人の父上ですが、事件当時主計少尉で東京に居住してゐた人が居りました。S氏といふ方で、もう亡くなられて10年ほど経ちます。S氏は陸軍士官学校を卒業され、事件の頃はまだ二十代半ばくらひだつたと聞きました。
尉官クラスとなればバリバリのエリートですし、贅沢さへしなければそこそこ給料もあり、ましてS氏は当時独身ですから食ふに困るといふことはなかつたさうです。
二・二六事件に関する書物を私は多く読んでをります。そこに出てくるのは、昭和5年に始まる東北地方を襲つた大飢饉といふ背景です。折しも世界大恐慌と重なつたことから我が国経済は深刻な打撃を受け、家族を飢餓から救ふため東北や長野の農家では娘を身売りさせたり、村役場では若い女性の身売りを斡旋するチラシが貼られてゐたといふ悲しい時代です(写真下)。
蹶起将校の一人、歩兵第三連隊の安藤輝三大尉(中隊長/写真下)は人品共に優れた人物として遍く知られてをります。彼の中隊の初年兵に東北出身の者が居り、家庭の窮状を知つた安藤大尉が自分の財布から生活費を捻出したといふ話は有名です。また事件当時は処分され民間人ではありましたが、事件の中心人物・磯部浅一氏(元・一等主計/大尉)の奥方は、さういふ東北から身売りされて苦界に身を置いてをられたのを磯部氏が身請けされた…といふ話も知られてゐるやうに、事件と東北大飢饉とは切つても切り離せない関連があります。
私は件のS氏に「その頃の庶民の食生活は、どのやうなものだつたのでせう?」と尋ねました。
話によれば、S氏の友人で、当時警察官の息子さんが居られました。毎日のやうに一緒に将棋を指したり談笑して居りましたが、ある日議論に熱中の余り夕方になつてしまひました。
そこで友人から「遅くなつたので夕餉を共にしやう。今日は鍋物だよ」と誘はれたさうです。言はれるままに家族の人たちと共に膳に着きましたが、卓袱台の真ん中に鍋が置いてあり、中にキャベツが一個、塩水で茹でてありました。米麦飯があるものの、他には何も出る気配がなかつたとか。Sさんはとても申し訳なくて、それを一緒に食する気にはなれず、急用を思ひ出したからと言つて丁重にお断りした…と話して下さいました。
当時の巡査の給金がいくら程だつたかは判らないし、ほかに事情があつたのかもしれませんが、しつかり働いてゐる勤め人でさへその程度の食生活だつた…と言へるでせう。
さて事件の方ですが、こと志とは裏腹に青年将校の蹶起は天皇陛下の逆鱗に触れ、軍法会議の末、北一輝や西田税といつた民間人と共に、多くの青年将校は銃殺刑となります。
さて事件の方ですが、こと志とは裏腹に青年将校の蹶起は天皇陛下の逆鱗に触れ、軍法会議の末、北一輝や西田税といつた民間人と共に、多くの青年将校は銃殺刑となります。
昭和七年の五・一五事件までは、昭和維新運動は広く民の支持を得てゐたと言ふ分析があります。しかし二・二六事件以降、表だつて青年将校運動を讃へる空気は無くなつてしまひ、昭和16年の大東亜戦争に向けて国論は収斂されてゆきます。
今の泰平の時代に家族と鍋を囲む私には、S氏のお人柄と共に、昭和初期の庶民の生活が垣間見へる話を聴かせて頂いたことが思ひ出され、覚えず掌を合はせる二月です。
今の泰平の時代に家族と鍋を囲む私には、S氏のお人柄と共に、昭和初期の庶民の生活が垣間見へる話を聴かせて頂いたことが思ひ出され、覚えず掌を合はせる二月です。