ここへきて「みっちゃんみちみち」である。
排泄と食糞を描いた世に稀な歌曲として知られている例のあの歌である。
破滅的な行為を描いた歌詞と、その内容にそぐわぬ軽快なメロディは、ある方面では日本を代表するパンク・アンセムとしても知られている。
各地方によって歌詞には種々のバリエーションがあるらしいが、ここは関東風の「みっちゃんみちみちうんこたれて/紙がないから手で拭いて/もったいないからなめちゃった」という歌詞について思考してみたいと思う。
まずのっけから登場するのは「みっちゃん」である。
ある日の森の中でもなければ、ある晴れた昼下がりでもなく、場面設定の説明が一切ないままでいきなり人物が現れる。
我々はまずここで一つ小さな驚愕を味わうこととなるのだ。
この人物は一体どこにいるというのか。
フラスコの中に突如として登場したのだろうか。
はたまた塵より作られてエデンの園に住まう者なのか。
だが、この「情景の説明」の欠如に関しては後の文脈から推測が可能なのだ。そこで、ここではロケーション問題は敢えてスルーして、「みっちゃん」という存在にスポットを当ててみようと思う。
さて、男か女かも分らない「みっちゃん」なるこの人物は、少なくとも記録に残っている限り二十世紀初頭からうんこを垂れ続けているらしい。
ただ、この人物が性別不明のままではなんの進展もないので、ここは仮にみっちゃんが男性であるものとして考えてみよう。
極論するならば、美智男か満彦か光輝かは不明なれど、彼が道々―道すがら―排便を行った挙句に、本来ならば紙ないしはそれに準ずる用具で肛門を清拭すべきところを、素手で糞便を拭った上にあろうことかその排泄物を摂食するに至る情景の描かれた歌曲である。
みっちゃんは恐らく青年から壮年、あるいは中年に至る年齢であると思われる。なぜと問われれば、幼年から少年期の子供というものは往々にして野糞をするものであるし、それより上の老年以降の年代であれば、不随意に排泄してしまう事態が珍しくはないからである。つまり、わざわざ歌にするほどのニュースバリューを持っていないのだ。
(逆に女性の排泄行為とすると、年代に関わらずそれはもうポルノグラフィとなってしまうので、この歌曲のように大っぴらに歌うことは憚られる)
二十代から五十代程度の、自律神経が正常に機能し屋外で排泄することを忌避する社会常識を備えている人物が、それでも野糞をせざるを得ない状況―そしてその狂乱の結末―を描いているからこそ、この歌は特異なのである。
そして続く「みちみちうんこたれて」である。
みっちゃんが二十~五十歳代と特定できた以上、この「道々」という言葉が通勤か退勤の道すがらを言い表していることは明白だろう。
だが、通勤の途上と考えるのは早計である。通勤する時間帯というのは朝であるからして、人目があるのだ。衆人環視の中で排泄するのは、想像するまでもなく非常に困難である。つけ加えるならば、人前で排泄行為に及ばんとすれば、下手をしなくとも官憲に通報されかねない。
そこで排他的選択によって、これは退勤の途上における排便ということが分るだろう。
恐らくみっちゃんは、勤務を終えた後に上司と共に入った居酒屋で、薦められるままに酒を過ごしてしまったのである。そして気づけば終電の時間である。みっちゃんは慌てて上司と共に店を出て、地下鉄の改札へと走っただろう。彼は改札で上司と別れ、下りの私鉄へと乗り込んだのだ。走ったことでアルコールが体内を巡り、みっちゃんは酔眼朦朧の態で自宅の最寄駅で降りたに相違ない。完全に酩酊していた彼は、駅のトイレないしは駅前のコンビニでトイレを借りることを失念してしまった。そして悲劇は起こったのである。
酔っていたがゆえに便意は急激に襲い掛かってきたのだ。
彼が我が家へ到着するにはあと十分近くかかるだろう。しかし、酩酊した肉体では走って帰ることもままならない。ことここに至り、みっちゃんは便意を堪えるべきか、なんらかの方法で解消すべきかを考え始める。酩酊した頭脳で、である。
すでに時間は零時を回っていたということもあり、夜道に人気はない。
折り良く、みっちゃんの進む道の先には空き地があった。雑草が生い茂り、奥まで見通せない空き地である。さらに、彼の便意はのっぴきならないところまで来ていたのだ。
そして、みっちゃんは便意に敗北した。
いやむしろ、酔っ払っていたみっちゃんはこう思ったのだ。「ここでやっちゃえ」と。
みっちゃんは夜空の下で排泄に勤しんだ。さんざん飲み食いした後の排便であるからして、恐らくは下痢便だったはずだ。それが如何なる事態を引き起こすかなど、排泄中のみっちゃんには想像だに出来なかっただろう。
排泄中の描写に関しては割愛するが、最後の一滴を出し終えたみっちゃんは、この段階でようやく気づいたのである。
「紙がない」と。
だが、酒精に溺れたみっちゃんの思考はそんなことに拘泥したりはしなかった。
「手で拭けばいいや」と考えたのだ。
下痢便であったがゆえに、排泄の残滓を手で拭き取るのは極めて容易であった。
人差し指、中指と順番に下痢便を拭っていくみっちゃん。
そして、肛門を綺麗にし終えた彼は、すっかり汚れた右手を如何にとやせんと迷っただろう。紙がないのであれば、空き地の雑草でも、カバンに入っているであろう書類の一部でも、自分のパンツでもなんでも使えばいいのだ。
ところが、排便を終えすっきりしてしまった彼はここで若干の空腹感を覚えていた。そして、みっちゃんの目の前にあるのは……
カレーのルウだったのだ。
そう。酔いに酔ったみっちゃんは下痢便とカレーを勘違いしていしまったのだ。本格的なカレー(いわゆるカリーである)からは日本人には嗅ぎなれない薬膳臭が漂うものであるからして、みっちゃんが誤認してしまったのも無理からぬことかも知れない。
そして、往々にして日本人がナンを用いてインドカレー(これは粘性が低い)を食す折にはルウが手に付着してしまうものなのだ。そういった場合に我々はどうするだろうか。
「もったいない」とペロリと舐めてしまうのである。
まさにみっちゃんもその様式に則って、己が手に付着したカレールウを「もったいないからなめちゃった」のだ。
彼にとって幸運だったのは、酔っ払っていて感覚が曖昧であったがゆえに、下痢便の微細な味を感じ取れなかったところであろう。
だが、排泄物は排泄物である。恐らくみっちゃんは、大便に含まれている菌類によって腹痛や下痢、嘔吐の症状を味わうこととなったに相違あるまい。
つまり、「みっちゃんみちみち」は酔っ払ったみっちゃんの痴態を通して、サラリーマンの日常(エートス)の中に現れた小さな悲劇(トラゴイディア)を描いた喜劇(コメディア)なのである。
この流れるような起承転結に埋め込まれた入れ子構造の妙こそが、この歌曲のキモであろう。
さらに付け加えるならば、これは泥酔して帰宅するサラリーマン諸氏への警鐘でもある。また、そんな状態になるまで酒の席に着かなければならない社会人の在りようを悲しく笑い飛ばした歌曲でもあるのだ。(この辺りがパンクのパンクたる所以かも知れない)
今まさに忘年会~新年会のシーズン真っ盛りの時期である。
サラリーマンならずとも、酒精に溺れた際の排泄には留意されたい。
追記:関東の一部地域では「みっちゃんびちびち」と歌うそうである。この場合の「びちびち」は排泄音である。
ということは、「みっちゃんみちみち」の「みちみち」も排便の様子を擬音に表したものではないだろうか。この場合、みっちゃんが勘違いしたのは「インドカレー」ではなく「キーマカレー」であることに間違いないだろう。