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最近、身体が自由に動かないのでかえってスポーツに興味が湧くから不思議だ。腰の骨を折って、自由歩行に支障を来すまでの長い期間、オレはずっと運動なんかに興味のひとかけらも抱かなかったのに。そう云えば、テニス界の貴公子なんて謂われているロジャー・フェデラーはスイスの選手らしいが、昨今彼はドバイに住居を構えているという。フェデラークラスになると世界中にいくつも住居はあるだろうが、本拠地としてドバイに住まいを構えているらしい。何でなんだ?ドバイは所得税がないのだそうだ。彼みたいに年間億単位で稼ぐ人々にとっては金にものを云わせて、税金を払わない方法を実際にやってのけられる。ジョコビッチなんて、モナコ公国に住んでいるそうだ。ここも所得税はとられないらしい。が、住むには億単位の資産がなければモナコ公国の市民にはなれないそうだけど。こんなのは序の口。世界中にこの手の脱税もどきの税金対策で資産を目減りさせないように生きている大金持ちが無数にいるんだ。所得格差が無限大に広がるのも当然ではないか!
オレみたいな最底辺の生活者でなくても、年収数百万程度のサラリーマンは、がっぽりと所得税を天引きされるから逃げようがない。自営業の青色申告なんてのもあって、ここでも天引きされるサラリーマンと差がつくのに、何で天引きされるような直接税のあり方に彼らは文句をつけないのだろう?サラリーマンだって、絶対に必要なものはたくさんあるから、経費として落とせる青色申告制度にすべきだ!という人が国会前に圧し掛けないのが日本の不思議だ。
世界規模で見ると、給与所得者であっても天引きの税金のとられ方をしている国の方が少ないのではないか、とどこかで読んだことがある。それが本当なら、よほど平均的日本人は政治家たちや金持ちに従順な国民らしい。いや、権力に対して従順な国民だ。たぶん、カタチは異なっても世界中、富める者は小狡く脱税や節税の方法を考え、富から縁遠い殆どの人々は逆らいもせず税金を差し出しているのが現実なのかも知れない。と、書いてもオレは決して、かつてのオレもそうだったが、給与から所得税をむしり取られる人を気の毒だとは決して思わない。要はかつてのオレも(いまのオレも同じようなものなのかもしれないけれど)、大半の庶民は物言わぬ羊の群れそのものだ。まあ、真剣にやれば金儲けは実際しんどいからな。会社勤めをしながら上司や同僚の悪口を安酒をあおりながら吐き出すのも、チンケだが歓びの一つではあるのだろうし、これは情けないストレス発散法だけど仕方がないね。時折真面目な給与所得者が働き過ぎて過労死したり、自殺したりするのはいかにオレだって看過出来ないけれど。
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古本にも結構新しいものがある。ビジネス書の類はみなそうだ。時代の変化にビジネス書の内実がついていけず、本棚に並べておくだけの価値もないから、読了したらすぐにブック・オフみたいなところに売りに出す人が多いのだ、と思う。ビジネス書の内容が本当かどうかには懐疑的であるにしろ、本の著者の見識をある程度信じると仮定して、語りたいことを彼らの言を借りて、話したいことだけを話すことにする。
オレは斜陽の呉服問屋に就職して、ズルズルと時間が経って、取り返しのつかない年齢で会社を放り出された。おまけに女房にも逃げられた。散々な人生だったと思うが、苦渋を舐めた人間にしか言えないこともある。苦渋を舐めた人間として、社会の底辺から叫び続けることにしようと云う決意は相変わらず自分の中に迷いなく在る。
オレみたいな貧乏人もたまには喫茶店に入ることがある。目的は新聞や雑誌に目を通すためだ。底辺から叫ぶにはマスコミなどは信じていないにしろ、世の中の多くの人がどんな考えにかぶれているかを知る必要があるからね。根拠のない関連性で云えば、新聞や雑誌をたくさん揃えている喫茶店ほど昔ながらのコーヒーショップという感じで、これが大抵まずいコーヒーを出す。店主の独りよがりのコーヒー豆の焙煎で煮だされたコーヒーは、オレには少々苦過ぎるし、ふくよかな香も期待出来ないのである。新聞や雑誌を読むにも忍耐が要るわけだ。
政府が今頃になって「働き方改革」と称して労働の時短を主に訴え始めた。「働き方改革」と確固をつけたのは、時短そのものを捉えても名目上それが出来るのはたんまり内部留保をため込んだ大企業だけではないのか?と単純なオレにも分かる感じがする。国会でああでもない、こうでもない、と言っている政治家たちは、本音では中小企業が大企業と同様に「働き方改革」とやらに前向きになれなんて思ってもいないだろう。「働き方改革」による労働時短で、解雇される労働者が増えるだけで、同時に倒産する中小企業がたくさん出るだろうことは素人にも分かる。所詮、消費税率を上げて、間接税で貧乏人からも満遍なく税金を巻き上げようとするような政治家たちに、物事の本質が分かるわけがない。オレの言い分―サラリーマンから巻き上げている直接税を思い切り下げよ!消費税も上げる必要はない。法人税を底の底まで下げてみよ!日本の企業は、安い法人税や労働力を求めてアジア諸国を彷徨う時代から、日本回帰する時期に来ているんだよ。タケナカヘイゾウが言い出しっぺの新自由主義なんて、貧富の差を深めるだけだ。富の再配分としてのトリクルダウン?アホか!そもそも富は上から下には還流しないんだよ。富は上で回っているだけだ。そういう経済構造を加速させるのが新自由主義の本質だ、とオレは思うけどね。タケナカヘイゾウ自身の生活は増々豊かになっていくのも偶然とは到底思えないな。
タケナカという学者がグローバライゼーションという新自由主義の積極的推進者として認識されていたことをオレは忘れないぞ!タケナカ自身がいま、なりを潜めている感があるから殆どの人たちは忘れているだけのことだろう。それにいまや政治経済界全体がタケナカヘイゾウ化しているからこそ、怖い時代なんだ。グローバライゼーションといえば何となく聞こえはいいが、これは国境を越えた、現代風の奴隷制度みたいなものではないのだろうか?安い賃金を求めて大企業がアジア諸国に生産拠点を移す。その地で賃金が上がり始めたらまた別の開発途上国へ生産地を移す。製品価格は当然安くはなるが、大企業が生産拠点を日本から海外に移すことで、日本の経済機構は圧倒的にスカスカ状態だ。現地生産して、安い賃金、安い法人税をアジア諸国に落とす。結果的に日本人の職場はなくなるし、賃金も生産工場も海外、売りつける商品も多くは海外なんだから、日本でお金がまわらなくなるのは当然のことだろう。大企業は目先の利益を求めて大もうけしているのに、日本人の社員の賃金もたいして上げないし、儲けた大枚の金は内部留保(設備投資のために必要だというレベルを遥かに超えているから、いわば銭にとりつかれた強欲な経営者たちの企業を私物化だ。企業内に貯め込んだ金は、まるで自分たちの預貯金だと謂わんばかりだ)としてたっぷりとため込んでいるんだ。日本の地方都市がますます過疎化することに拍車を駆けたね、これが。大都市に人口が集中するのは当たり前だし、そもそも働く場が東京一極なんだから、地方はさびれる一方だ。これも綺麗ごとから始まったことだから括弧つきで言わせてもらうが、「地方創生」なんて言っても企業を日本に呼び戻さなければ意味がないわけだ。田んぼだらけの、(その上、農業人口の高齢化は目を覆うばかりだ)日本の地方に生産拠点を呼び戻さないと、地方は若者が寄り付かず、年寄りばかりになってしまうのは当然ではないか!東京一極集中という現象は、地方の若者が華やかな都会に憧れることとは本質的に似て非なるものだ。これを解決出来ない政治家は、高い給与を貰う資格はないし、そもそも彼らのやっている政治とはいったい何なのか?歳費の無駄をはぶくために議員数を減らすと言っていたのはウソどころか、むしろ議員数は増えているんだから笑えるね。
煌々と光り輝く大都市と、真っ暗闇の中で人口がどんどん減っていく田舎とのコントラストはアホらし過ぎて、もはやオレなんて逆に笑うことしか出来ないんだ。誤解なく言っておくが、オレは地方をバカにしているのではないよ。こうなることがずっと前から分かっていながら大都会でノウノウと「地方創生」なんて言って政治家ヅラしているアホどもに対して、この世の中で誰が一番嘘つきか?という疑問の答えは、一も二もなく、お前ら政治家、官僚、大企業さんたちだよ、とオレは言いたいだけでね。こんなことを毒づいている人間に貼られるレッテルは左翼だとか過激派だとか危険分子だなんて云うものだけれど、この世界で最も危険な人間たちは、自分がノーマルな思想の持主で、社会のために役立っていると喧伝しているような輩たちだ。これは断言してもいい。
(8)
オレはこの歳になるまで、あまり物事を深く考えない人間だったと正直に告白すべきだと思っている。若い頃は殆ど皮膚感覚で、いやだ、おかしい、と感じていることにも言語化出来ずに結局は人から勧められるまま斜陽の呉服問屋に就職したし、上司から勧められるままに職場結婚した。紹介された女はオレには不釣り合いなほど男の欲情をそそるタイプの女だった。オレに断る理由など何一つなかった。愛を育むなんて概念も分からないまま、25歳で結婚した。
妻の理恵は二つ年上だったが、確かにオレは舞い上がった。理恵は結婚後も仕事を続けたが、オレはそれでよかった。呉服問屋の給料はよくなかったし、共働きでないと経済的な将来展望など持ちようがなかったからだ。理恵も働きたいと言っていたから、当時のオレには願ったりかなったりだったというわけだ。その頃の理恵はオレに理恵を紹介してくれた上司の中山雅樹の秘書的な仕事をするようになっていたから、しばしば中山の、呉服商仲間の寄り合いや飲み会に同行したものだ。帰りが遅くなることが結構多かった。それが自然なものだと思っていたし、何より結婚したことで、オレの京都の伝統に胡坐をかいた文化という存在に対する嫌悪感も薄らいだくらいだったから。まあ、オレは京都に限らず、伝統だとか地域の因習だとか、ベタベタの家族愛とやらの全てが大嫌いだったわけで、その意味で上司の中山には感謝するばかりだった。
(9)
誰もが当たり前に受け入れている価値観にオレが疑いを持ち始めたのは、オレの精神に頼るべき根っ子がなかったからだと思う。何が何だかも分からない社会と立ち向かわねばならないときに両親が交通事故で死んでしまった。その時からだろうな、オレが世の中の当たり前の価値観に疑いを持ち始めたのは。天涯孤独の身に18歳でなったのは、裏を返せば家族愛とか因習とか風習などに囚われない自由を手に入れたことの要因にはなったが、同時にいつも自分が孤独であり、独りぼっちで世界の只中に投げ出されたのだと思っていたのも事実である。
孤独が深すぎると涙も出なくなるし、世の中で当たり前のことが一々気に障って仕方がなかったのである。だからこそ、オレは、みんなとは違って、社会の奥底を見抜ける人間だと自覚していたが、社会の方は、オレなどまるで存在しないかのように、ただの呉服問屋の丁稚の、顔すら覚えてももらえない人間でしかなかったのだろう。少なくとも理恵と結婚するまでのオレの神経は良くも悪くも研ぎ澄まされていくばかりだったのだ。その有様を反抗の論理の先鋭化とも云えるだろうし、自分の実体のない存在を誰からも認知されない、という意味でラルフ・エリソンのように自らの存在を「見えない人間」と称してもよかった、と思う。
「見えない人間」同然だと自己定義をしたくて仕方がないが、両親を交通事故で亡くしたことを自己憐憫の道具にしている甘ちょろい日本人のおまえが何を気どってやがる!とオレが尊敬している数少ない作家のラルフ・エリソンなら、甘ちょろい奴だなと一蹴することだろう。
差別国家だった頃のアメリカ(掘り下げれば今も何一つ変わってはいないのだろうけれど)の、ラルフ・エリソンの主著と言って過言ではない「見えない人間」の一人であると認識することで、オレはこの狭い京都の伝統文化という殻の中で何とか息を詰まらせずにこれまで生き抜いてくることが出来たのだ。
しかし、理恵と結婚生活を始めた当初、オレはどこかで「見えない人間」に描かれた世界観に蓋をしたかったのかも知れない。どうにもこうにもオレは疲れ果てていたからだろうと、67歳のいまだからこそ言える。オレは離婚以来再び「見えない人間」として生きてきたが、死ぬまでこの思想を持ちながら生き抜いていくつもりだ。それこそがオレが生きてきた証だと感じられるようになったからだろうと無理やりにでもこじつけてやる!
(10)
理恵と結婚して二年後に子どもを授かった。男の子だったので和樹と名付けた。しかし、まったくオレに似た要素が和樹には発見出来なかった。とはいえ当時のオレは、和樹が妻に似ているならさぞかしいい男に育ってくれるだろう、と漠然と思いながら日々を過ごしていたのである。
しかし、この頃になると、職場の仲間も油断するようになったのか、飲み会の折などに、結婚前の理恵は誰にでも股を開く女だったということをぼかして言うようになった。オレの推測では、職場の同僚の誰一人、理恵と寝ていない男はいないと思う。オレに理恵を紹介した上司の中山自身もその中の一人だろう。それどころか、いまの理恵が中山の秘書的存在であることを思えば、中山自身が最も親密な関係にある男だということも理解出来た。理恵が仕事で遅くなる理由も想像すれば、夫の嫉妬心をかき立てるには十分だった。二人がどこでどんな男と女のネバネバとした執拗な営みをしているか、理恵のオレとのセックスを思い浮かべれば、それ以上におれ以外の男たち、特に中山との交わりの粘着質な交接のありようが分かるのだ。
結婚後の付き合いを考えれば、息子の和樹は間違いなく中山の子どもだ。同僚に理恵の性的指向をほのめかされる前に、オレは理恵にもう一人くらいは子どもがほしい、と話したことがあった。その時の彼女の反応は、子どもは一人でたくさんよ、とはねつけるように言った。あれは、オレの子どもなんてほしくはない、という宣言だったと思う。いろいろな事情が分かってきた時、オレはこれから先、ずっと中山やかつての男との妻の交接を許容しながら生きていかねばならないのかと思うと、終わりなき憂鬱に圧し潰されるように感じたものだった。やはり、オレの人生はどこまでも閉ざされているのだ。あるいは、オレの嫌いなジャンルの言葉で言えば、呪われているのだ。過去も、いまも、未来もオレはカギをかけられたドアと窓一つない部屋に閉じ込められているように感じながら生きていかねばならないのだ。薄っぺらい「地下室の手記」。ドストエフスキーはオレを見て高笑いするかも知れない。