棄てる!                                                                                      小田 晃

(1)

 西向きの窓から差し込む陽ざしが、薄っぺらなカーテン越しに容赦なく照りつける。まだ6月だというのに、昨今の日本の気候はどうかしていて、オレが子どもの頃の夏休みの朝の、蒸せるような暑さと同じくらい厳しい。今朝も全身汗まみれで起こされた。そう、毎朝オレは目を覚ましたくもないのに、この暑さで無理やり起こされる。全身汗だくだ。家賃3万5千円の二階建て木造アパートで、風呂は勿論ない。だいぶ歩かないと銭湯がないし、そこも経営者が爺さん婆さんの二人なので、そのうち閉ることになるだろう。玄関を入ったすぐ横に流し台とカタチだけのガスコンロがある。板間の台所兼リビングのつもりだろう空間に小さなテーブルと椅子が二脚置いてある。オレが座るのは決まって玄関から遠い方で、もう一脚はまず誰も座らない無意味な存在だ。家具屋で一番安いテーブルを買ったら否応なく椅子が二脚ついてきただけのことだ。

 流し台の水道の栓をひねり、チョロチョロと水を出す。ざーと流すと水道のメーターの上がり具合が速いと誰かから聞いて、それ以来水はチョロチョロと流すことにしている。頭から水をかぶり、顔をざっくりと洗い、タオルを濡らして上半身の汗を拭う。それからお決まりのように一つしかない6畳の和室の窓と台所の小さな窓を空けて、ぬるい空気を部屋全体に通した気分に浸る。朝飯は食わない。節約のためだ。昼近くになってからコンビニで一番安い弁当を買い、チンしてもらう。お茶は買わない。毎日ボトルのお茶や水を買うのはバカらしいので、近所のスーパーで買った一番安いお茶っ葉を前の日に煮だして、目が覚めたら冷蔵庫に入れて冷やす。ずっと昔に買った小さな魔法瓶に冷えたお茶を入れて持ち歩く。魔法瓶はオレの散歩の必須アイテムだ。

 日々の日課になってしまった行動は、鴨川の歩道を散歩してみたり、時折、河原町近辺で買えもしないものをウィンドウ越しに見て満足することだ。疲れたら街中のネットカフェに入り、時間潰しに長時間マンガを読んだり一冊100円の古本を何冊か持ち込んで読書もする。出来るだけ金は使いたくないが、ネットカフェの書棚に並んでいるのは殆どマンガ本ばかりだから仕方がない。アマゾンにアクセスして古本を結構たくさん買う。本の値段よりも送料が高くつくことの不条理性を感じるが、河原町近辺の古本屋も激減したので致し方ない。アマゾンへの登録カードは生活保護費が振り込まれるのに必要だというので、銀行に作らされたカードをアマゾンに登録しているというわけだ。まあ、これがオレの大雑把な暮らしぶりの概略。書いてみれば、何とも味気ない日常である。

(2)

 オレは永野陽平といい、今年で67歳になる。世間のジャンル分けでは押しも押されもしない老人だ。

高校を出てから室町の呉服問屋に就職した。52歳まで安い給料で働いていたのに、まわりの呉服問屋は次々と倒産して、跡地はマンションになっていった。その後はホテルの建設ラッシュだ。ともかく金に目ざとい人間の動きは速い。昆虫の触覚が獲物を探るように獲物の金を得続けることに奔走している。

  52歳になったときにオレの勤めている呉服問屋もご多分に漏れず倒産の憂き目に遇った。結果、オレは永年勤めてきた職場を失ったのである。ある意味、京都の限られた地域に呉服に関わる商売がこれほど永く持ち応えられたのが不思議なくらいだ。いまだに倒産せずにもち応えている呉服商は、我慢比べで己をすり減らしながら耐え抜いたのである。あるいは、呉服に纏わるあらゆるビジネスの裾野を広げていったのである。ビジネスの要とは、目利きと忍耐が勝敗を決する最も大切な要因ではないのか?とオレにだっていまはそう思えるようになった。それにしても、もはや何に対しても取り返しのつかない年齢になり、自分では何一つ創り出すことが出来ないということに、散々な目に遭いながら気づいた。オレはどこまで行っても凡庸な人間だ、と想う。本来なら、こんなことは誰にでも分かることだ。オレは頭の血の巡りの悪い分、気づくのに時間がかかり過ぎた、ということか?

会社が倒産してから、オレは何のつぶしにもならない呉服商人が落ちていく典型のように、日雇い仕事で60歳を過ぎるまで食いつないだが、62歳のときに、マンションの建設現場で三階部分の足場から落ちて腰の骨を折った。労災認定されるはずもなく、退院後のオレに出来る仕事はますます限られたものにならざるを得なかった。

  52歳からオレは独りぼっちだ。会社が倒産したら、女房は子どもを連れてオレを見限って出て行ってしまったからだ。オレの両親はオレが高校を出る直前に交通事故で死んだ。大学へ行くことも出来ず、しぶしぶ高校から室町通りの、父親の知人に勧められて、ある呉服問屋に就職した。同じ呉服問屋に勤めていた女と結婚して子どもを授かったのに、その女房が呉服問屋が倒産したと同時にオレを見棄てたのである。家族が去ってからオレは人をこれまで以上に信じなくなった。人生に山あり谷ありなどと言い古された言葉だが、オレに山と云うものがあったとは思えない。オレは地を這い、地の底まで辿り着いたというわけだ。

  62歳のときに工事現場で腰の骨を折った後遺症が出て、足を引きずるようになった。リハビリにも限界というものがあるようだ。半分諦め気分で社会福祉申請をしたら認定された。それ以来、オレは世の中の最低限度の生活が出来ると謳われているだけの金を支給され、社会の底辺に生きる生活者として、いまのアパートに移り住み、いじましい生活を強いられている。何度言っても言い足りないが、いまのオレは人も社会も信じていない。いくつかの不幸が重なって、さらに仕事でケガをし、社会福祉の最低限の生活をしていることで、世の中の不公平性を恨んでいるのは事実だ。

  オレはそもそも人間の裡に内包されているはずの「共同性」を追い求める、という概念が理解出来ないということか?何故そう思うかと言うと、人間の「共同性」というものに大いなる虚偽と不公平性を見出し、憤っているからだ。だからこそ、オレは分かる。社会という総体、人間の集合体そのものが虚像なのだ、と。オレは社会に蔓延している偽善を心底憎む。偽善者ほど自分のことを良き人間だと信じて疑わないが、彼らの善良さ?というのは、単に世間体を気にした結果の言動であったりする。そして何よりオレの神経を逆なでするのは、善良?な人々が、己の勝手な価値観を覆すことがもし身近で起これば、それを全力で隠蔽しようとして憚らない。こういう人間はすべからく偽善者だ。彼らにとって、何より大切なものは自分。偽善者とは自己愛に溢れている!これが偽善者の真の姿だ。

(3)

 オレは幼い頃から虚弱体質で、学校も休みがちだった。運動神経にも恵まれず、唯一の楽しみといえば本を読むことだけだった。というか、友達に関わったらバカにされるだけだったので、自分一人の世界に閉じこもる手段が読書だったというだけのことだ。本の中の作りものの世界の登場人物と同化することが、オレが世界の中で生きるということだったのである。一人っ子で甘やかされて喘息持ちになったのか、喘息だったから甘やかされたのかは定かではないが、ともかくオレは他者と関わると決まって喘息の発作に襲われた。だから、学生時代の友人たちは誰か?と自問しても誰ひとり思い出す顔などまるでない。

 誰とも、何とも関わらなかった分、オレは本をむさぼるように読んだ。しかし、読書家という類の人間ではない。それしかすることがなかっただけのことだ。が、結果的にオレは膨大な本の内実から世界を見渡していたのかも知れない。誰にも評価されず、誰にも理解されず、それでもオレは結構な確率で世の中の矛盾の本質的で根源的な要因に辿り着けるようになっていたように思う。より正確に言うと、自分なりの思い込みの渦の中に埋もれていられたということだろう。

(4)

  こんなことを言うと誰からも非難されることだろうが、そもそもオレには人間の労働の意味がよく分からないのである。生活費を捻出するために仕事をする人もいれば、自分の仕事に誇りを持って生きる糧にしている人もいる。それはよく理解している。が、歴史の大きな流れの中で、人間が仕事を創出して行っていることの殆どは無意味ではないか、と思えてならないのである。 

確かに生活様式の近現代化がもたらした社会現象が、人の暮らしの利便性を高めはしたのだろうし、オレのいまの生活の糧である社会福祉の概念や制度が生まれたのも、人が仕事を重ね、社会様式が変化した結果の副産物だろう。敢えて自分の立場を無視した言い方をすれば、この世の中、「やり過ぎ」だということではなかろうか、とオレは強く思っているのである。科学技術の進歩によって人間が幸福になる、と素朴に信じていたのは、少なくともオレの場合は1970年代までだ。かの大阪万国博覧会に初めて、日本の原子力発電所からの電気が会場中を眩く照らしたときの感動は忘れないし、手塚治の「鉄腕アトム」が悪しき者たちを快刀乱麻する姿に酔いしれたことも事実だ。鉄腕アトムの胸をパカっと開ければ、そこに原子力のエネルギー発生装置があって、アトムは原子力エネルギーを注入して空を飛び、百万馬力のエネルギーを発揮し、悪党を次々になぎ倒す。そう、その当時の原子力は、人類の未来を輝かしいものにするための必須の要素だった。

 しかし、21世紀の現代はどうだ?原子力開発は、劣化ウランの処理も開発しながら未来永劫使えるエネルギーとして機能するはずだった。しかし、核廃棄物の処理どころか、いまやそれをどこに棄てようか?と云う話にすり替わっている。見切り発車とはこういうことを言うのである。そう言えば鉄腕アトムの妹は、ウランだった。皮肉な話である。すでにこの世の人ではなくなっている手塚治は、いまの時代に生きていたら何と感じるだろう?

 まあ、原子力開発は政治色が濃いし、政争の道具にされがちだから、オレがとやかく言ったところで意味がないだろう。いまはこの話は深堀しないでおこうか。

(5)

 世の中、こぞってAIだのIOTだの、コンピュータプラットフォームをどう構築するかという議論が最先端なのだと謂わんばかりだ。デジタル化、キャッシュレス化なんていうのも当然のように、恰好よく?語られるのはどうしたことだろうか?

おかしな話が大手を振ってまかり通っていることもある。大手銀行が消費者金融に資金と大手銀行の名前貸しをし、お墨付きを与え、テレビで大宣伝だ。消費者金融は、いまや大手銀行の子会社になってしまったか?消費者金融業者が、人気タレントを巧みに使って高利貸しを正当化していることが批判的に語られなくなってしまった。人々の高利子の金を借りるための精神的垣根を低め、なおかつ殆ど無審査のカードローンを低所得者に貸し出すというわけだ。タレントはギャラを貰えればそれでいいのだろうが、借りる側は、あれで借りなくても我慢出来る金を高利子で借りてしまう、この戯画的様相はいったい世の中、どうなってしまったのだろうか?これはむしろ正当化を装った犯罪的行為と言っても言い過ぎではないだろう?それでいて、高利貸しへの過払い金を取り戻すことを主な仕事にしている弁護士事務所も儲けているのだと聞く。貧困ビジネスが闊歩しているのが現代という時代か?いや、人類の歴史そのものが貧しい人間から搾取しまくってきたわけだから、これが人間社会の暗部と言えば言えなくもない。

  人口知能の発達を礼賛する人間たちは、スマホから貯蓄も振り込みも支払いも出来てしまうのだから便利この上ないと宣うが、こんな使い方が出来るのは、口座に金がたっぷりある人間だけだろう?お気軽にカードやスマホでどんどん支払いをして、後でしまった!と後悔するのは大した金のない人間だし、そういうのに限って、お支払い方法はリボ払いで!という悪魔の誘いにすぐに乗ってしまう。リボ払いも高金利の悪徳商法だからね、オレから言わせると。いまの社会システムの中で、貧乏人はますます貧乏の泥沼に落ち込んでしまうように仕上がっているわけだ。金持ちたちの金を増やす方法は、明確な脱税や限りなくそれに近いこともやりながらの、資産運用だろうし、資産は減らないどころか、増える一方なのは当然の成り行きだ。現代は所得格差の時代だって?そんなことはとっくに分かっている。所得格差を生み出している側が偽善的に格差社会を根絶しよう!などと念仏のように唱えているだけなのだ。