No Border 生きる。ベトナムで。

No Border 生きる。ベトナムで。

自分は自分でしかない。 I'll be there.

先日の日本への一時帰国で家族と会った際

兄や父親との会話が「株」「車」「不動産」「遺産相続」など

ほぼお金に関することが7割だったことに辟易したことは書いた。

 

無価値だとは思わない。

が、所詮お金は手段にすぎない、と書くと

「お金がないとそもそも何も始まらないし満たされない」という声が

聞こえてきそうだが、昨今お金の増減のみに囚われている人も

増えているように感じる。

 

そのお金を使って何をするか。それが最も重要なことだ。

ただこんなわかりきったことでさえ、多くの人が

「口座残高を増やすことに必死になっていて、本末転倒になっている」

と個人的に思う。

 

例えば家族で旅行に行く、美味しいご飯を食べに行く、子供におもちゃを

買ってあげる、ひとりで旅をしに行く。など身体性をもった行為こそが

本質的には人の人生の幸福に寄与すると思っている。

 

むろん、無駄な浪費はやめたほうがいいが、ガンガン使ってもまた増やせるように

すればいいだけ。つまり稼げばいいだけ。

自分は事業という”生き物”にも多くのお金を使っているがこれは事業を通して

自分が、社会との接点をリアルに持ち、それが生きがいになっていて

それでいて、事業の成長とともに資産も増えていく楽しさを感じている。

 

かくいう自分も、決してお金を有効的に使っているかと言われればYesと言えない。

だから、もっと使い方を上手くなりたいと思う。

 

AIの進化・浸透で益々フィジカルな行為が価値を帯びる。

むしろそこの部分でしか、人間が人間たらしめる意義を見出せなくなるのでは

ないだろうか。

角幡さんの「43歳頂点論」を拝読した。

 

類型的(端的に言うとレールの上を生きる、的な)な生き方ではなく

固有性をもって生きることが(特に若いときには)人生の意味を見出すことに

繋がる。

 

率直にこの部分は共感した。自分は社会人になったころから「同質化」を

極端に嫌うようになった。いやもともと嫌っていたが学生時代は気づかなかった

だけかもしれない。

 

先日の日本一時帰国でも周囲がほぼ同じ服装、髪型、雰囲気の日本の街の中で

息苦しさを感じた。単なる一時帰国なのに、も関わらず。

一方ベトナムでは「周りを気にしない」でいられる。言葉もわからないのが

周囲の雑音を強制的に排除することに繋がっているからだろう。

 

20代は経験を求め、固有性を願望し、30代は登る山を定める、そして経験と

肉体的な成熟が最大限高まり共鳴しあうのが43歳(という主張)。

 

自分に重ねると、現在38歳だが、なんとなく納得感がある。

37歳で「今チャレンジしないと手遅れになる」と起業したことは自分の人生の

”ここしかない分岐点”になった。まだ起業して1年ちょっとしか経っていないが

すでにそう感じている。

 

本著では著名な登山家や冒険家が43歳前後で亡くなる事例をいくつか

取り上げている。その要因は?

 

人生で最も大きな成果を残したい、でも身体が、頭が、経験が限りなく

クロスしハーモニーを奏でるそのタイミングを射止めるのは困難で焦りが生じ

無理な挑戦をさせる。結果、死に至らしめる事態に遭遇する。

 

もし自分が、37で起業していなかった、日々の不満が爆発し

狂乱に陥ってしまっていたかもしれない(これはマジで結構な確率でそうなって

いたと思う)

 

自分は、43歳を頂点とは特段考えていない、というかいつが頂点とかは正直

どうでもいい。

 

今の自分と家族の生活&人生を噛みしめたい。そのために妻と作った事業を

ゆっくり確実に育てていく。そこに不要な焦りはいらない。長期戦だ。

 

固有性への固執、はベトナムにいることで自然と満たされる。

実はその恩恵はこの上なく有難い(一方でカルチャーの違いによるストレスは

あるが、実はそのストレスさえ、欲しているのかもしれない(笑))

 

これからの人生は、ベトナムを「とことん掘る」。深堀する。

一歩一歩、丁寧に、自分の感性を信じて。

今回は、北海道と東京に4日間ほど行ってきた。

 

北海道は仕事なので非常に濃密な2日間を過ごすことができ

冬に入る寸前の街の気配、空気感を堪能できたことはよかったし

これが日本のすばらしさだと感じる。

 

そして東京、メインの目的は家族と会うこと、そして旧友と会うこと。

旧友は25年来の友人でお互い色々な苦労はあるがそれを素で共有できる

貴重な機会だった。この友人とは死ぬまで付き合っていきたいと

つくづく思わされた(忙しい中、会ってくれて本当にありがとう!)

 

家族もいつも通り、と言いたいところだが今回は違和感を感じた。

初めに言っておくと、是非の問題ではない。あくまで自分個人が自分という

きわめて主観的なフィルターを通して感じたことだ。

 

端的に言うと「話が合わない」ということだ。

 

同じ屋根の下で共に住んでいたのは20年以上前に遡る。

社会に出て(親は定年退職もし)、荒波にもまれ個々人が異なる経験をし

異なる景色をみて、今に至る。”ズレ”が生じるのも無理はない。

 

ベトナムの妻や子供と一緒に日本に帰国していたらまた違ったかもしれない。

ただ、自分1人だとどうも毎回話が、同じ(実際はもちろん新情報や進展もあるが

方向性は同じ)で、例えるなら、居酒屋で会社の同僚と愚痴を言い合っている

感じに近い。

 

また、これもやむを得ないのだが、話の内容が総じて「老いを感じる」。

ここでいう老いとは単に年齢が高齢になっているということだけでなく

話の内容がやや重く、代わり映えなく、真の意味で素で話している感じが

しないということを包含する。

 

まあ、家族間での会話なので目的も必要ないし、つまらなくてもいいし

聞いてるか聞いてないかわからない、独り言のような話でも特段気を使わないし

それはそれでいい。ただ、毎回これだと(たとえ会うのが1年に1回だとしても)

少し気が引ける。

 

あくまで相対的なことでなんの根拠もないポジショントークになるが

やはり自分は海外にいることで、日本に住んでいる人よりもほぼ間違いなく

日々の環境の、より早い変化に直面していると痛感する。

それがたった1年であっても、だ。

 

繰り返すが、これは是非の問題ではない。

いま、各々が人生を創っている場の環境が異なると、時とともに

かつての共通の思考様式はおろか家族間での”以前は合った無条件の心地よさ”

も喪失することを示唆している。ということに今回気づいてしまった。

 

ベトナムに到着し、街にでてベトナム語を聞いたとき確実にホッとしている自分がいた。

 

わかっていたが、完全に日本はホームではなくなりベトナムがホームと化している。

 

ただこれはネガティブなことではない。いやむしろ興味深いことであり

日本という母国の知らない部分を外側から興味深く見ていくことができるということ。

まだまだ知らない。奥深い、でもちょっと変な日本を。

 

Pivotでテラドローンの特集があり見た。

徳重さん自体は、テラモーターズ創業初期から知っているし

なんなら、自分が新卒で入った会社を5ヶ月で退職した際

転職先として、テラモーターズの面接を受けようとしたこともあった。

(なによりベトナムでH君と会い、おおいに刺激を受けたことは間違いない)

 

あれから約15年が経った。テラモーターズ(=テラドローン)は上場し

テラドローンはいまでは国防の要として防衛省から国産メーカー唯一の

採択をされた希少価値の高い企業になっている。

 

なにがここまでの企業にさせたのか。

大きな要因は、徳重さんの比類なきワイルドな破壊的な行動力

そしてベンチャースピリッツを今でも忘れず攻め続けているからだろう。

 

トップが落ち着いてはならない。その瞬間、企業の成長は止まり

もっと大きな視点でみればその人の人生も歩みを止めるだろう。

大げさではない。過去から今を振り返り、過去ワイルドで今もワイルドさを

保っている人は、その人自身が落ち着かずに、今でも行動しまくっている。

逆に現在魅力的ではなくなった人は総じて落ち着いてしまっている。

 

これが生き様だろう。無論、落ち着いた人生を選ぶのもまた良し。

 

が。

 

自分の性格的にそれはないだろう、自分自身のことはわかる。

 

徳重さんが現在国防ドローンのために戦時下のウクライナに通い

ドローン事業を大きくし、血肉の通ったリアルな生き様をみせている

ことから、自分はなにを得るか。

 

何一つ、始まっていないのに、もうマンネリ化している事実を

俺自身はどう感じるのか。

 

綺麗な身分を装うな。道なき場所に道を創れ。

少しずつ気付いているはずだ、今の自分がどう行動すべきか。

 

なら、考えるより先に、動け。

 

 

 

1年前の今頃は、計画していたものより現実がうまくいかず

焦っていた。心身ともにかなり緊迫した状態になっていた。

 

1年後の、今。事業はほぼ計画通りに順調に進んでいて

心身も1年前に比べれば穏やかでいられているが、逆にマンネリを

生んでしまっている。そしてここから先の予想される大きな売り上げの

伸びも見通しが不透明だ。

 

最近見た興味深いマーケティング事例で

「WEB広告が効果がないと言って一度止めると再度開始しても1回目の

時と比べて効果が薄い(CPAなどが悪い)」というもの。

 

この事象を抽象化すると、一旦、足と止めると再度走り出しても

以前のようなスピード、結果が付いてこない(効率性が下がる)のだ。

 

これが意外と盲点。妥協が、惰性が将来の芽を摘み、危機を生じさせる。

 

だから、走り続けなればならない。そしてそこから目を背けてはならない。

 

スローライフだなんて、表面上都合の良いことを言っても実際は

走り続けた方が、身体も頭も活性化し血を巡らせ、生き生きと人生を歩める。

 

ならば、走り続けよう。止まるな。