福岡市で生まれる

祖母から「弱者の味方になれ、どんな小さな命も尊いんだよ」と教わる

九州大学医学部を卒業し、国内の病院に勤務

32歳のとき、登山隊同行の医者としてパキスタンへ

噂を聞きつけ、多くの村民が群がり、薬を求められる

しかしこれは登山者用…泣く泣く断る…

彼らの思いに答えられなかった無念…

帰国後もずっと心の隅に残る

5年後の1984年、医療団の声掛けにより再びパキスタンの地へ

北部ペシャワールの病院に赴任

最低10年は滞在し医療活動することを決意する

しかし医療設備は散々な状況…

ねじれたピンセット、聞こえない聴診器、押せば倒れる医療台車…

停電は日常茶飯事で、懐中電灯の光で手術をする日々

7年経過したころ、パキスタンの隣アフガニスタンで戦争が勃発

働く病院には逃れてきた人たちで溢れかえる

「医者がいない村がたくさんあるんだ、早く医療ができる体制を作らないと」

早速、隣国アフガニスタンにも診療所を開設し拠点を移す

数年後の2000年、大変なことが起こる

大干ばつが発生し、大地はカラカラ状態に

水はなくなり見渡す限りの荒れ地、砂漠…

女性は遠くまで何時間もかけて水を汲みに出掛け

子供は地面の泥水をすすり、病気に

特に赤ちゃんは、診療の順番を待っている間にも亡くなってしまう状況…

どうしたらいいんだ…きれいな水さえあれば…

そんな時、脳裏に浮かんだ祖母の言葉…

「…弱者の味方になれ…どんな小さな命も尊いんだよ…」

よし、まずは水だ、病気はそのあとで治す!

翌日から白衣のまま井戸を掘り始める

次第に地元の人たちも協力してくれ

6年間でなんと1,600か所の井戸を掘ることに成功!

しかしやがて大きな壁にぶち当たることになる

井戸を掘っても水が湧いてこない…

大干ばつの影響で地下水自体が枯れてしまったことが原因

水だ…水をなんとか手配しなければ…

考え抜いた末、出てきた結論

それは、遠くに流れる大きな川から直接、水を村に届ける用水路をつくること

緑の大地計画という名の壮大な計画…いや無謀な計画…

それでも信念曲げず、

土木技術も何もわからないため、一から数学を学び直し

難しい計算をし、設計図を自ら作成

地元の農民だけでなく、兵士や難民にも声をかけ、用水路の必要性を説く

すでに年齢も56歳だが全くあきらめていない

「今、必要なのは100の診療所よりも1本の用水路なんだ!!!」

そして作業から7年後、全長25キロの用水路が完成!

荒れ地に作物が実り、牛やミツバチが飼われるまでに

その後も用水路を増やし、古い用水路を修復

15,000ヘクタールの広い大地で作物が作れるように、

実に65万人もの人々が飢えずにすむほどの大きさになった

2019年12月、いつものように用水路の工事現場に行く途中…

…銃で…撃たれ…73歳でこの世を去る…

多くのアフガニスタンの人々が死を悼み悲しみに暮れる

12月7日、追悼式典が行われた際は、アフガニスタン大統領も棺を担いだ

その後、人道支援活動の功績が称えられ、アフガニスタン政府は肖像画の切手を発行

追悼広場「ナカムラ」を建設し、写真や石碑が設置された


「大事なのは、与えられた場所でいかに力を尽すか。深く考えないようにしながら、その時、その時の仕事に全力で取り組んでいます」そんな言葉を遺されたのが、


日本人医師

中村 哲さん