今日は、
「意識の科学は可能か」新曜社 2002年 の中の
「言語から見た意識」信原幸弘を紹介し、次回はその批判をします。
信原先生は東京大学の先生です。
では、
「私が特に問題にしたいと思うのは、「意識への現われ」という言い方をする時の、そういう意識についてで、・・意識に現われるさまざまな事物や性質は、最近、特に「クオリア」と言う言葉で呼ばれることが多くなっています・・このような、意識への現われと言うのは一体どのような存在なのでしょうか。・・この存在論的な問題こそが意識の問題のすべてである」といわゆるクオリア問題を提起されます。
次に具体例からの手がかりを
「例えば今、私の目の前にトマトが見えているとします。」
「私の意識に現れているトマトは、現に存在する実物のトマトとどういう関係があるのでしょうか。」
「一見すると、意識に現われるトマトは実物のトマトその物であるように思われます。」が
「意識に現われるトマトは実物のトマトではない」と言う事です。なぜなら
「トマトが見えている時に瞼をちょっと押さえてみると、トマトが二重に見えて」来るからです。
すると「目の前に見えているトマトは何なのでしょうか。」となります。
「一つの手がかりになりそうなのは、知覚経験(クオリア)と脳状態の関係です。」
「視覚経験は、脳の状態と密接な関係にあります。」
「トマトが見えているというのは目の前にまさにトマトが現われている。」状態です。
「視覚中枢の状態というのは、たくさんの数のニューロンが興奮を起している状態です。」
「この二つは、どう考えても、全く異なるように思われます。」
「密接な関係はあるけれども、やはり違うと考えるのが当然だと思われるのです。」
と具体的な説明での問題再提起です。
この問題はハードプロブレムと言われ「意識の現象的側面について、物理的に説明が可能なのか」という問題で有名です。
そこで先生の考えは、「意識のハードプロブレムに対する答えとして、私が今のところ唯一見込みがありそうだと考えているのは、「志向説」と呼ばれる考え方です。」
と言う事で先生の「志向説」とは。
まず「志向説にとって最も重要となるのは、表象の志向的特徴と内在的特徴の区別です。」とし、
「表象は何かを表わすものですから、表象によって表わされるものと、そのようなものを表わす表象それ自体を区別する事ができます。」
「この区別が表象の志向的特徴と内在的特徴の区別です。」
となります。
たとえば「犬が走る」という文において、犬が走ることは志向的特徴で、その文自体は内在的特徴です。違う言葉では「表象それ自体に備わる特徴が内在的特徴です。それは要するに、表象に内在する特徴なのです。」なんだか言葉の繰り返しの感がしますね。
ここで「哲学では、表象がある事柄を表わすとき、表象はその事柄を「志向する」という言い方を」するのですと、「志向する」ことの説明が書かれています。
以上を念頭において「トマトが赤く見えるという知覚経験を考えてみましょう。」と進みます。
「赤いという性質やトマトという対象がその経験によって表わされていますから、それらが志向的特徴と言う事になります。」先ほどの「志向する」の説明のとおりです。
するともう一方の内在的特徴とは
「トマトが赤く見えるという経験は、意識に赤いトマトの見え姿が立ち現われるという、そういう経験です。この意識に現われる赤い色やトマト、これらがこの経験の内在的特徴でしょうか」と自問されますが、結局
「たしかに目の前に赤いトマトが立ち現われますが、その見え姿を通して赤いトマトを表象しているわけではなく、その見え姿そのものがその経験によって表象されている事柄にほかなりません。」と。
あたりまえの事ですよね。見えていると思っている物その物は、先生の言われている表象その物だからです。
「それでは、経験(クオリア)それ自体に備わる内在的特徴とは一体どのような物になるのでしょうか。」「実は経験の内在的特徴をほとんど知りません。」
とお手上げ状態です。つまり、“どうして経験をするのか”“クオリアとは何か”の説明が出来ないと言っているのです。
そして、「経験について私達がよく知っているのは、志向的特徴のほうです。内在的特徴の方はほとんど知りません。そうだとすれば、経験の内在的特徴が実は脳の状態に備わっているような特徴だと言う事も、十分ありうることです。」
「私たちは経験の内在的特徴をほとんど知らないわけですから、あらかじめ脳状態に備わる特徴のようなものは経験の内在的特徴にはなりえないとはいえません。」
「どのような特徴でも経験の内在的特徴となりうる可能性があります。」
以上のように、半ばなげやりで、何でもありだと言っていますが、先生は最初から、脳状態に可能性を、理由なく求めておられるようです。
これがそうです。
「科学的な探求の結果、実は脳のこれこれの状態のかくかくの特徴がその内在的特徴だと言う事が明らかになるということも、十分可能なわけです。」
「経験の内在的特徴が脳状態の特徴であるとすれば、それはつまり、経験がその脳状態にほかならないと言う事です。脳状態はある一定の特徴を持つことによって、ある一定の内容を表わし、そうすることによってまさにそのような内容をもつ経験となるのです。こうして経験を脳状態と同一視する道が開けてくることになります。」
この説明は大変奇妙です。お手上げ状態で何でもありの状況から、ある一つの仮定「経験の内在的特徴が脳状態の特徴であるとすれば」と決め打ちし、その結果道が開けてくるとは実に変です。
例えば、“脳活動の結果、赤を見ている”と言う事は、常識のことですし、ことさらもったいぶって言う事もありませんから。
ここまでは、“脳活動が、意識経験(クオリア)と関係している”との主張です。
次ぎの、本題の問題に移ります
「ところで、意識に現われるものが経験の志向的特徴だとしても、それではその志向的特徴と言うのは一体どのような存在なのでしょうか。」
クオリアとはどんなものかということです。
「志向的特徴がそもそも物理的なものによっては説明出来ない非物理的なものだとすれば、意識に現われるものはやはり物理的には説明できないものということになってしまいます。」
うまくクオリアを物理的に説明出来ないというのです。
しかし、先生はそうではないと言います。
「しかし、幸い、そうはなりません。」
「トマトが見えるという経験がトマトを表わすことは、十分可能です。」
この文章は、何が言いたいのかよくわかりません。が、
「その経験がトマトを表わすということは、その経験が目の前にトマトがあるときに形成されたり、トマトの方に手を伸ばす動作を導いたりするといった、しかるべき機能を持つ事に他ならないと考えればいいのです。」
経験が機能を持つとでもいうのでしょうか?
ここは重要なところなので少し長くなりますが、そのまま本文を引用させて頂きます。
「これは言葉の意味の場合と同様です。たとえば、「タバコ」という言葉は、たとえこの世にタバコが一本もなくなっても、やはりタバコを表わしますが、だからと言ってその言葉が何かタバコの影のようなもの、あるいは可能的なタバコといったものを表わすと考える必要はありません。そのような非物理的な存在を導入しなくても、「タバコ」という言葉がタバコを表わすことは、その言葉がしかるべき仕方で使用されていることとして説明できます。私たちはタバコを指指して「これはタバコだ」といったり、タバコを買いたいときに「タバコをください」と言ったりします。「たばこ」という言葉がこのような仕方で用いられていることが、その言葉がタバコを表わすということにほかならないのです。これはウィトゲンシュタインという哲学者が唱えた「意味の使用説」という有名な考え方ですが、要するに言葉の意味はその使用によって説明出来るのです。
言葉の使用と言うのは、言いかえれば、言葉の働き、機能にほかなりません。言葉がある仕方で使用されるということは、その言葉がそのような使用によって遂行される機能を持つということにほかなりません。したがって、言葉がある一定の事物を表わすと言う事は、その言葉がある一定の機能を持つ事として説明されると言う事ができます。これは表象一般について言えることです。つまり、一般に、表象が何かを表わすということは、表象がある一定の機能を持つ事にほかならないのです。」
いやぁ、長かった。
分かりましたか、ここが多分先生の重要の点です。
このあたりの批判を次回にやりたいと思いますので、楽しみにしておいて下さい。
最後、本文で残った意識、無意識の経験は省きますが、次回の批判で絡め説明します。
長くなってすみませんでした。