今日は「脳はいかにして心をつくるのか」の、第2章「意味と表象」です。
前回では、大問題が提起されました。では、今回はどうでしょうか?
そして、
意識を追求するハンターにとって「意味と表象」は最大の大事な主題となります。それぞれをどう把握し、これらの材料をどう料理してくれるでしょうか。
それではまず、初めの文章から
「意味の探求は、最も基本的且つ永続的な人間活動ですが、意味は各人に特有なものですから明確に定義することはできません。意味は、それを実感することの喜びとして、あるいはそれを失ったり、持っていなかったりすることの苦しみとして普遍的にけいけんされるものです。」と書かれてあります。
ここでの「意味」は想像するに日常生活のおいての意味・人間行動での意味と思われます。
物理現象の意とか数式の意味が含まれるかどうかはこの時点では不明です。ですが定義できないと断定しているのが気になります。もうしこし手に取りやすい説明の欲しいところです。
その後の表現で意味について書かれてあるのは、「意味は、われわれが為す行為と選択から、われわれ自身の内部において独特な形で形成されます。」と。これは明快な表現ですが、具体的には何も言っていません。ただの感想文でしょうか。
続いて「それはまず、両親や同僚や仲間達から教えられた信念体系に従って生きることを学ことから始まります。それはわれわれ自身に合うように手直しされ、やがてわれわれ自身の一部になっていきます。」と。
著者が言いたいのは多分、
意味は、生まれてきて育った環境中の生活行動で、「独特」な形で作られると。このような曖昧な意味でいいのでしょうか?
次に言いたい点は、“意味の共有”と言う事で
「しばしばわれわれは、「意味を共有する」という言葉を、用います。意味は共に働き、踊り、歌い、そして祈ることによって人々の間で共有されることを私は信じています。私は、この共有された意味構造を「同化された意味」と名付けました。」と。
この同化された意味を実現するために「話・表情・ゼスチャーや、アーチストが創作する書物や絵画」使われ、そして「これらの形は意味を表象している」とします。
さらに、「ここにおける意味は動物を含む観察者の内部に存在しているのであって、物的対象や出来事や身体の動きの内に存在するのではありません。脳のみが意味を所有しているのであって、それは表象とは全く異なるものです。」と続けます。
まったくそのとおりです。意味を共有するため、表象を使います。
でもここで言われている意味は、意識・クオリア的意味と無意識的意味の分別はされていません。
さらに、意味の次元と表象の次元の差も書かれていません。
そして、脳の活動が意味と関係しているとして、注意しないといけないと著者が主張しているのは
「脳の活動状態と行動との相関を探る場合、測定された脳活動パターンと比較する相手は表象としての心的内容ではなく、その時観察されている人もしくは動物の、脳内に存在すると推定される意味の状態でなければなりません。」と言います。よく読まないと、なにが言いたいのかわかりません。
この言葉の“表象としての心的内容”と“意味の状態”をどう理解すればいいのでしょうか?
チンパンジーの実験でモニター上の形状を見せての実験で赤色と青色の違いを判断させる場合の注意でしょうか?
「表象」と「意味」とは異なるから注意しなさい、と言っているのか?
私には、全く解りません。でも進めます。
著者は、以上の前置きから、次に進みます。
「脳は相互に連絡しあうニューロンによって構成されているのですから、ニューロン活動から意味を生じさせるような何らかの機構が存在するに違いありません。」
いよいよ、核心に迫ります。と、思いきやここではまだ問題提起のままです。問題の重要性を語るだけです。
さらに話は代わり、次ぎは志向性について、
「意味が成長し作動するプロセスが志向性」だとし、「思考は常に何かについてのもの、信念は常にある出来事の状態についてのもの」という志向性のありかたを「心的表象の指向性とよばれ」ているとし、
そしてこの志向性を材料にし、話が進みます。
「志向性という語の大きな特徴は、意識という心的状態が暗に要請されている事です。」
「しかし、明らかに志向的で意味を有するわれわれの日常活動のほとんどは、明晰に意識することなく行なわれています。」例えば、無意識的にする自転車の運転などがそうです。
「この無意識的ではあるが方向性をもった熟達こそ、志向性の第一に含めなければならないものです。」と。
そして「志向性の記述に意識を含める必要が無いという事実を認めることによって、新たな展開が開かれます。意識は脳機能についての理論構築を始める上で、良い出発点ではありません。」と言うのです。
被験者の意識の有無を問いただせるのは「言葉で尋ねる以外に、生物学的な検査方法がないからです。」と限界を語ります。
意識を省いて実際の研究を進めなさいと言う事でしょうか?
つぎに
「脳と身体の複雑な働きがより単純な動物に起源し、やがて人間が有する能力へと進化した事は、すでに進化生物学者によって示されています。したがって、動物がいまやっていることについての意識を有しているか否かは知りえないにしても、少なくとも意図を有している事は、その行動の観察から推定することが出来ます。」といい、行動の観察の重要性を指摘されます。意識を排除しても良いと言うことか?
そして、再度の問題提起です。
「もし脳が受け取った刺激に単に反応するだけではないとすれば、行動は脳の中でどのようにうまれるのでしょうか?」
「外界世界が無限の感覚刺激を身体に与えるとすれば、脳はその中から当面最も重要なものをどのようにして選別するのでしょうか?」・・・・
「これらの難問に対する生物学的な答えを見いだすことは可能であると、私は主張します。」と言い。この線にそって以降、話が進んでいくようです。
そして、上の線で話を進めようとした時にまず考えておかなければいけない二つ。
「ニューロンとニューロン集団との違い」が一つ目。
コンピュータと脳の違い、が二つ目となります。
二つ目に対し、
脳は、「コンピュータにおけるような固定的表象は存在せず、ただ意味だけが存在する」。
「対象からの感覚刺激が脳の中にパターンを作り出すことは事実ですが、同一刺激が同一脳に繰り返し与えられたばあいでも、同じパターンが繰り返し現われる事は決してありません」とかを例に引き、これから著者が言いたいことの伏線をはります。
でも、これらは中途半端な文です。というのは、意味だけが存在すると言う事の説明がありません。
流動的な表象ならあるよ、と言うのか。
なにかわからないけれど、意味と言う者があるという理解でいいのか。
また、同一刺激はわかりますが、同一脳というのがわかりません、同一脳などありえないからです。というのは、脳は時間・経験と共に変化していると解釈すべきですから。
最後に、
「哲学と心理学の歴史が生み出した理論的枠組みとしては、唯物論、認知主義、プラグマティズムという三つの主要な考え方が存在し、私の理論はプラグマティズムのカテゴリーに該等します。」と立ち居置が示されます。
次章からは具体的な脳内の神経活動の話になります。