春宵一刻あたい千金、
これは、なぜか知っている、つまりどこで憶えたのか記憶のない、詩の冒頭です。
けだるい暖かさと、寒い冬の名残のまざった春の宵のひとときの雰囲気を実にうまくあらわしたものです。
4月です。昨日、仕事が終り自転車で部屋まで帰る途中、桜を見ようと、少し寄り道をしました。近くの学校の門の周りに5,6本咲いているのです。
生暖かい風が枝をゆらし、街灯があたかもライトアップしたかのように照らしています。花は白いピンク色です。お月さんもありました。そこで上の詩を思い出したのです。
桜を見れば、西行とか、桜の樹の下には死体が埋まっているのかなどを思い出だすのですが、
昨日は、“春宵一刻あたい千金”と口ずさみ、さてその後はどうだったけな?と考えながら、後は出てきません。
部屋に帰り、調べましたらありました、蘇東坡の“春夜”と言う詩で、
春宵一刻あたい千金、
花に清香あり、月に陰あり
歌管楼台、声細細
しゅんせん院落、夜沈沈。
この前だけを憶えていたのでした。後は硬そうな表現です。
蘇東坡、そう、彼は宋時代の政治家、文人、士大夫、私の大好きな尚友です。今年の大学センター試験・漢文にも、彼の事が出ていましたし、赤壁之賦など、実に胸を打つ文章として、人口に膾炙しています。
高校時代に憶えたこの賦、未だに記憶しており、全文ではありませんが、口から出てきます。
“その声鳴鳴然として、怨むが如く慕うが如く、泣くが如く訴うるが如し”。
など、なぜかよく思い出します。
この賦と、帰去来の辞と、抜本塞源論、これらは3名文だと思っています。
で、ついでに、本を開いたのでざっと見ていきました。蘇東坡の詩は、雰囲気として渇いた感じ・無機質の感じ・少し理屈っぽい感じのが多く、若い時にはあまり好きになれませんでした。李白とか白居易の唐詩と全然雰囲気が違うのです。
でも、昨日は読んでいく内に、彼の詩の好さが分かる気がしました。有名な「水調歌頭」は勿論、仲のよかった弟・子由(蘇轍)との別れの歌とか、獄中で死を覚悟したときの歌とか、その味わいが分かる年代になったのでしょう。
明月幾時よりかある
酒を把って青天に問う。
丁度、子供の時にはきらいなピーマンとか、ねぎを大人になって食べられるようになるとか。
じつは、最近クラシック音楽で、現代音楽が聞けるようになったのです。昔はシューベルトのような音楽を好んでましたが、これも好みが進歩したからでしょうか。
さらに本を読んでいきますと、蘇東坡と程伊川とが党争を起していたんですね。蘇東坡の出身、峨眉山の近くの四川省・蜀の蜀党派と、程伊川の出身地洛陽の洛党派が派閥抗争「洛蜀の党議」を起していたんです。この二人は前回のブログで登場した王安石の新法党でなく、司馬光の旧法党に属しているんですが、司馬光の死後政策の対立で党争を起したのです。
そして、結局二人とも晩年は不遇でした。
程伊川はいうまでも無く厳格な人柄の儒者で有名です。二程全書・近思録にあるように、再婚してはいけない、節義は死より大事と言うくらいの謹厳実直な儒者で、彼の思想は朱子に受け継がれ朱子学へと大成します。
一方、蘇東坡は二度結婚をし、一度目は19歳の時、二度目(33歳)の相手は先妻のいとこ(21歳)と結婚をしました。偏狭な儒の立場でなく老荘思想、禅の心を開いた人物でした。かれの母親程氏は篤く仏教を信心していました。
私はどちらも大好きですが、彼らは喧嘩をしてたのです。
そして、蘇東坡は最後には広州から海南島に左遷・流罪にされました。この時は妾朝雲を伴っています。このように蘇東坡の事蹟を読んでいると、中国のスケールの大きさが分かります。中国全土を駆け巡りながら、国を動かし、論争し、詩を書き、賦を作り、後世に偉大な足跡を残しているのですから。
最後に二つ、
彼の不思議な話、
彼は不思議な現象を幾つか見ています、“遊金山寺”より、
江心 炬火の明らかなる有るに似たり
飛焔 山を照らして棲烏 驚く
悵然として帰臥し 心に識るなし
鬼に非ず 人に非ず ついに何者ぞや。
川の真ん中に突然たいまつの様に現われた光、山を照らし、からすを驚かせ、わけのわからぬまま、寝た。鬼でもなく、人でもなく、なんだったのか。
この時の光を、ハレー彗星であるとか、UFOだとか言われているようです。
このほかにも、彼は不思議な体験を詩(夜泛西湖)に残しています。
そして、
トンポーロー・豚肉の中国料理です。いろんな説があるのでしょうが、彼の詩“食猪肉”に
ゆるやかに火をつけ
少しく水を著け
火候足れる時、それ自ずからうまし。
と書かれてあり、この料理詩に基づいて命名されたとも言われています。
漢字は東坡肉と書きます。彼は料理も作るんですね。
(完)