さて、今日から新しい本
「東洋の知で心脳問題は解けるか」大谷悟 海鳴社2011年
を読みます。
大谷悟先生は現在パリ第6大学神経病態生理学研究所グループリーダだそうです。
この本は題名から想像がつくように、東洋的考え方で心脳問題を解こうとしています。とするならば、この本を読む我々は、“東洋の知”とは何なのか、“心脳問題”とは何なのか、“解けるか”の解くとは何を期待していいのかを、あらかじめ頭に入れて読むべきだと思います。
そこで、大谷先生の立ち居地を述べてもらいます。
先ず、前提として現在の脳科学のアプローチ
「脳と心の全体像の理解の仕方には一つ絶対破ってはいけないルールがある。それは「数量化」と、それに伴う「主観の排除」だ。脳科学は科学なのである。
大先輩の物理学や化学が取り決めたルールに従ってやらないと、反則切符を切られてしまう。」という、科学のルール、これを次のように無視すると言います。
「本書の目的は、この反則切符を無視することだ。というか、反則切符を叩き返し、「数量化」という科学の金字塔をこちらから定義し直してやれ、というのが本書の目的である。」
このように威勢のいい言葉が並んでいますが、“痩せ犬の遠吠え”にならないか心配です。
そして、どうしてこの様な事を考えるようになったのかといえば、
「そうしない限り、満足ゆくような心の理解は絶対に至らないだろうと考えるからだ。そしてゆくゆくは、そんな営為が私たちのこの世界をもう少しは生きやすいものにするのに役立つだろう。」と。
でも、「科学の金字塔を定義しなおす」と言う事と「もうすこしは生きやすいものにする」というのは、なんか水と油のような関係であると感じますが、どう思います?
でも、当然無視することにより、何かが開けてくればいいのです。
で、本当にそうなのでしょうか?いまくいったかどうかの判断は、この本の読者に委ねられているはずです。
以上を頭の隅の置いといて、読んでいきます。
まず、先生は東洋・日本と西洋の違いに注目します。まず、読者の興味を引くであろう「性生活の人種による違い」を取り上げます。
「一人の人が持っているセックスパートナーの平均数には、人種間で大きな違いがある。これは脳内のドーパミンの濃度が、人種の間で遺伝的に違うからだ。」との結論と、その基となったデータ
「23歳から26歳までのグループ。一人当たりのセックスパートナーの数。
「白人男性6,45人、白人女性5,24人」「黒人男性10,65人、黒人女性6,28人」「ヒスパニック男性6,61人、ヒスパニック女性4,49人」「アジア系男性2,57人、アジア系女性2,28人」」
読者の興味が大きくなっていきます。
たしかに常識的な判断で人種による違いは感じますし、それが遺伝子の違いであるというのも納得します。まず見た目がちがうのですから。
しかし科学的根拠をとなれば、簡単に結論は出せません、先生も「結論できるだけの十分な証拠がない場合には結論しない。」とかっこよく言っていますが、結局
「東洋と西洋の文化の間にはある質的な違いがある。この直観を、私はひとまず認めた。すると私の中で、「東洋回帰」が起こった。」のです。
科学的な判断じゃないけれど、仮にそうして話を進めるという姿勢です。ということは、そうでない場合の考察も必要なのですが、先生は用意してくれているでしょうか。なければ、方手落ちです。
そして、先生の思いを代弁してくれる先達を見つけました。それは2008年に亡くなった、加藤周一と言う思想家で、彼の言葉
「西洋文化においては、空間が時間を凌駕する。日本文化においては、時間が空間を凌駕する。」
「西洋流の空間中心の考え方によっているかぎり、心と脳の理解は進まない。東洋流の、時間凌駕の考え方に転換する必要がある。」
です。
これによれば、時間中心の考え方がされていない、特に心と脳の領域において、ということですが、事はそんな単純なものでないはずです。特に哲学の領域では時間も含め西洋の哲学者は深い洞察をおこなっていますし、また日本人哲学者を完全に凌駕しています。
そのほかに色々と、理屈を見つけておられますが、
先生は西洋社会に長く暮らしてこられたようで、「あちら」と「こちら」の違いを肌で感じられたようです。「あちら」は西洋社会「こちら」は日本社会。
今回の先生の結論は
「「西洋人の脳内には遊離ドーパミンの量が多い。だから興味を引く対象がそこら辺に散在する事になる。その結果として、空間探索行動が盛んになるのだ。」
これはこれで面白い理解のしかたの一つだ。だが私がここで言おうとしているのは、そういうことではない。そうではなくて、「あちら」と「こちら」の違いを直感としてまず認め、自分の感覚がよって立つところに素直に耳を傾けてみようということだ。そして、そこから、「心と脳」について、もう一度だけ考察してみようということだ。」と。
上の言葉は、まさに直感として認める心情的な記述ですから、本当に「科学の金字塔を定義しなおす」ことが出来るのか心配です。
さて次回は、道元の唯心論を読みます。これで「東洋の知」の輪郭が得られると思われます。