渡邊氏に代わり、亡父の墓誌銘を作る。松陰先生は文章家としても、藩内で通っていたのだろうか。


「先考藤右衛門の墓誌銘 渡邊某に代りて」       安政3年7月5日


先考(亡父)の諱(いみな)は章、友佐と称する。後に、藤右衛門と改める。靖恭公(毛利斉房)の末年である、享和紀元の辛酉の年(1801年・安政3年より55年前)に、先考は13歳で始めて、陣僧(従軍僧)となる。後25年、下命があり髪の毛を蓄え還俗した。また5年して、禄を増された。また4年して、班を進めた(昇進された)。晩年に沖家室(おきかむろ・大島郡)の番所役につき、そこで居ること9年で役を免ぜられた。その後4年で死す。その時は安政丙辰(3年)3月3日である。行年68、鹽田の先祖の墓地に葬られる。

先考の状貌(顔かたち)は雄偉で、性は謹厳、飲酒を好まれない。

前後合わせて、官に居る事四十余年、少しの過ちもない。

配偶者は佐籐氏、子はいない。

不肖の博、従弟である私が、代わり後を継ぐ。嗚呼、哀しいかな。


銘に曰く

巌山が巌々と険しい様相の、先考の宅。鹽水が洋々とさまよう様な、先考の跡。68年の生涯、言行において択ぶところが無い。禄を増し、班を進められ、代々その恩沢を受ける。この子、この孫、この事実を刻石に見よ。

孤子博、泣血し立つ。


(完)