さて今日は前回の続き
「「わたし」を探険する」村田純一 岩波書店
を。
今日はこの本の第1章と第2章に相当します、第1日目と2日目の講義録を読みます。第1日目はどうでもよいイントロですからパスします。
それで、第2日目の内容。
まず、真正面からの質問の解答3種。
問いは
「わたしとは誰か」と言うものです。
一人目はデカルト、
「わたしとは考えるもののことである。」
「ここで考えると言う言葉は、知覚、想像、意志などと並ぶ一つの心的な状態の種類を表すのではなく、これら心的状態を直接意識することによって、心的状態を心的状態たらしめる働きをするものであって、
考えるものとは、それら心的状態全ての担い手としての精神の事を意味する」
という
心身二元論です。身体と精神の二元が実在するというものです。
これは、正誤はともかく非常にわかり易い論ですが、
つぎのE.マッハの感覚一元論はかなりわかりにくい論であると思っています。
まず写真の絵を見てください。「これはマッハが自ら自己観察を行なった様子を描いた図で、」
「安楽椅子に足を伸ばして横になり、右目を閉じた時に左目に映った視覚像を、右手に持った筆記用具を使って描いているところを自分で描いたものだそうです。」
そこで「わたしとは誰か」という問いとその答えがマッハでは
「問題――「自我」の自己観察を遂行すること、」で
「解答――人々はそれを造作なく遂行する」というもので、
茶化した表現で煙に巻いています。
で村田先生はそれを解説して
「視覚野に現れる要素はこの身体と連関づけられるか否かによって、
物理的なものと見なされたり、
心理的は「わたしの感覚」と見なされたりすると言う」
また
「あるものが一つの物体であるという事、あるいは、
あるものが一人の自我であるという事、
これらはもっぱら要素の連関の仕方によって規定されるものであり、
自我と世界、感覚と物体の区別もそのつどの状況に依存した便宜的な区分にすぎない」
と。
先生の説明ではよく判らないですが、わたしなりの理解では、
例えば視覚を例に取り、
見えたもので私と関係していないものは、物質であり、
私と感覚でつながったものが私である。
と理解しました。
でもすごくあやふやな解釈ですが。
例えばテレビ、机の上にあればテレビは物理物質、
でも実際映っているテレビをわたしが見ればそのテレビとつながった感覚が私、
(テレビを見る事によって、私・感覚が生まれてくる。)
先生も、もう少しましな例をまじえて説明をしてくれていたら、何の問題もなく理解できるのに。
結局先生はマッハの論に納得されていないんだと思います。
「本来の自己認識が問題となるべき「主観としてのわたし」を捉え損なっている」といわれています。
でも、先生がマッハの論を引っ張り出して説明されたのは、次に紹介する
J.J.ギブソンとかメルロ=ポンティをはじめ多くの現象学者の論を言いたかったからでしょう。
三人目の論は次回に。