「西湖佳話 を読む」 安政3年3月5日
私の性癖は偏執で、雑書を見るのを好まない。
最近ある人から「西湖佳話」の本、一帙(ちつ・ひと包み)を借り、一通り目を通してみてすこぶる快いと感じた。
その全16蹟(16巻)の文章の中では、楽天(白居易)、子瞻(蘇軾)、賓王(馬周)、鵬興(温子昇)、銭鏐とかの諸蹟の巻は、いわゆる豪快磊落で、天地の間に住まいする者としては文句の付けようがない。
次に
(孤山)隠蹟(巻の6)の巻の君復、
(虎渓)笑蹟(巻の10)の巻の元浄、
(放生)善蹟(巻の16)の巻の蓮池、
これらは、先の人々の次に位置する人物である。
ただ一人于公 (于謙)の忠勲偉烈の素晴らしい事蹟を(三台)夢蹟(巻の8)の巻に含め、またこれを夢に祈る事にしたのは、勝手な事を言い、ない事をあるように言うでたらめな事である。
西冷の韻蹟(巻の6)の巻は、愛すべき巻であるけれども、また、
梅嶼の恨蹟(巻の14)の巻は、痛むべき巻であるけれども、
さらに、下に位置されるべきである。
葛嶺仙蹟(巻の1)、南屏酔蹟(巻の9)、断橋情蹟(巻の11)、三生石蹟(巻の13)、雷峯怪蹟(巻の15)の5蹟に至りては、でたらめで道理が通っていず、最低の巻である。
だから私は、16蹟の内
白提政蹟(巻の2)、大橋才蹟(巻の3)、霊隠詩蹟(巻の4)、岳墳忠蹟(巻の7)の数蹟を抄出して、観覧の材料にしたく思う。
しかし、これらの数名は中国正史の言として、すでに存在しており、わざわざ雑書に期待することではない。雑書は結局見るほどの物ではないのである。
そうと言っても、この佳話は、私のように物に捕らわれ易い性格の者に、一通り目を通しただけで「こころよし」と言はせるのは、きっといいところもある本なのだろう。
善く読む者でなければ、だれがこの事を知ろうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/bukou2007/29976820.html
(西湖佳話の評)